璽光尊
昭和21年1月1日、昭和天皇は詔書を著し官報にて発表した。これからの日本の民主主義について、戦前のものと基本理念は変わらないこと、そして天皇と国民の関係は信頼と敬愛によるものであり神話や伝説によるものではないという主旨であった。これはGHQの意向を受けて発表したものではあるが、天皇が無理矢理書かされたものではない。前半の内容は、日本の本質的な部分は変わらないと国民を安心させるため、後半の内容は、天皇を徒に神格視しておきながら、昭和天皇自身の意向を無視して戦争への道を進んだ層に知らしめる意味があったと思われる。
生物学者であり、天皇機関説を肯定した昭和天皇にとって当然のことを述べたにすぎない。しかし、この宣言で「天皇が自分の神性を否定した」というところを大きく取り上げられ、後に天皇はそれは不本意だったと語っている。
だが、この内容にショックを受けた国民も少なくなかったようだ。小説家の三島由紀夫はの自作品の登場人物の口を借りて批判をしている。小説の世界での話ではあるが、実際に戦前戦後の社会の変化に不安や戸惑いの感情を持った人々の代弁をしていたようだ。
昭和初期、普通の主婦だった長岡ナカは、何度か熱病に罹り死の淵をさまよった。そしてその間に神の啓示を受けたと言い出す。彼女の言動は近所で評判になり、じわじわと信者が増えていくようになった。やがて彼女は夫と離婚して上京し信者と共に宗教団体を立ち上げ、やがて別の宗教団体と合併し「璽宇」という名称で再スタートすることになった。しかし合併した方の主宰者が資金繰りの事業の失敗によって精神面が弱まり、その指導力を失っていく中、長岡ナカは堂々とした態度を崩さず、彼女が璽宇の中心となって活動するようになった。
彼女のカリスマ性は高く、信者の中には棋聖・呉清源や元横綱・双葉山もいた。また、信者ではなくとも著名な文筆家との交流もあった。
そして昭和天皇の"人間宣言"に際して、彼女は「天皇から天照大御神が抜け、私に宿った」とし、神聖天皇・天璽照妙光良姫皇尊(璽光尊)と名乗り、信者を導くことになる。彼女の住まいは皇居と呼ばれ、当時はGHQに禁止されていた日章旗が掲揚された。教団内では独自の元号を用いたり教団内でのみ通用する通貨を発行し、憲法を制定、信者を大臣とした内閣を組織。さながらミニ国家の体を成していく。日本が占領され、国のあり方が変わってしまうかもしれない、という不安を利用したのだ。
戦後、GHQの意向によって信教の自由が重視され、新興宗教に対する規制はゆるくなり、続々と新興宗教団体が発足していた。しかし、璽宇の状況はGHQも危険視し、その意向を受けて警察はこれをマーク。やがて璽宇はもうすぐ日本に大地震が起こると予言し、警察は璽光尊や幹部らに出頭を命じるが、彼女らはそれを拒否。教団に警察の強制捜査が入る。警察と信者との間で大乱闘の末、璽光尊らは逮捕。しかし彼女は精神鑑定を受け、精神病であるとして釈放された。幹部たちも同様に釈放された。
教団幹部が罰せられることは無かったが、この事件が契機で信者たちは続々と脱退。呉清源や双葉山も、脱退をした。
璽光尊は自らを天皇であると称したことは撤回せず、そのまま残った信者と細々と璽宇の活動を続けその後は大きな問題を起こすこともなかった。