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熊沢天皇

 かつて日本では皇統が二つに分かれ、南北朝で二人の天皇が並立するという時代があった。

 足利義満の計らいにより、一応、南北朝は合一され、今後は北朝と南朝の皇統とで交互に天皇を立てることにする取り決めがされたのだが、足利幕府はその約束を反故にして北朝の皇族を次の天皇にすることを決める。これに反発した一部の南朝の皇族とそれを支援する武将は京を離れ、足利の目の届かないところで南朝の皇胤の即位を目論んだ。また、京に残った他の南朝の皇族は足利幕府の圧力で出家し断絶させられた。南朝勢力は幾度か戦を仕掛けたり、三種の神器を奪還したりしたものの、結局は幕府側が勝利し、やがて南朝皇胤はいずこかに姿を消した。

 時は流れ、江戸時代。この頃、南北朝の争いを記した軍記物語の『太平記』の講釈を聞くことが庶民の間で流行の娯楽となっていた。歴史の敗残者である南朝皇胤に思いを馳せる者も少なくなかった。

 一方、同じ頃、諸藩の武士や名士らの間では自分の家系に箔をつけるため、偽の文書や系図を作らせることが密かに流行っていた。由緒ある家柄だとそれだけ出世に有利だったからだ。そういう「それっぽい」系図を作成するアルバイトもいたという。

 そんな嘘も時と共に嘘であることが忘れ去られ、何も知らぬ子孫が蔵の奥からそれを発見して真に受けてしまう。そんなこともあっただろう。


 明治20年代、愛知県の熊沢家で動きがあった。熊沢家は総本家・本家・分家と分かれたそれなりの名家だったが、その祖先は熊沢家に伝わる系図に依れば、応仁の乱のときに擁立された南朝の皇胤、西陣南帝こと信雅王だというのだ。そして先祖代々の墓に刻まれた家紋も菊花紋であるのだ。もし本当に皇族の子孫ならば、国に正式に認めてもらおう。そう考えた熊沢家は一族総出で歴史学者を訪ねたり熊沢家に関係する古文書を探したりすることにした。

 明治37年以降、熊沢一族は何度か国家機関に資料を提出したが、その不備を指摘されて却下された。しかし、熊沢一族はめげることなく資料の収集を続ける。熊沢本家の熊沢大然は数人の華族に推薦文を書いてもらい資料と共に提出して受諾される。この頃の熊沢家の希望としては、自分たちが祀ってきた先祖を皇族と認め、その墓を公に神社に合祀して欲しいというもので大きな野心はなかったようだ。

 だが、ちょうど同じ頃、日本では南北朝正閏問題が起こっていた。北朝の天皇と南朝の天皇、正統はどちらかという議論だ。歴史学者はどちらも正統でよいと考えていたのだが、明治政府としてはそうもいかなかった。大日本帝国憲法の第一条の条文は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあったからだ。さらに明治44年、明治天皇暗殺を計画したと冤罪をかけられたジャーナリストの幸徳秋水が逮捕され、その取り調べ中、彼はそのあまりに一方的で理不尽なやり方に対し、思い余って「現在の天皇は南朝の天皇を殺して三種の神器を奪い取った北朝の天皇の子孫ではないか」と発言したといわれる。この発言は公的な記録には残されていないが噂話として広まっていき、南北朝正閏問題の解決を急かされることになる。議論は紛糾したが、明治天皇の意向で南朝が正統であるとされた。

 この決定で熊沢家は色めき立つ。なぜなら現在の宮家は全て北朝の流れを汲む皇族であるからだ。南朝が正統であると決定した今、熊沢家が宮家となるならば序列第一位となるかもしれない!

 熊沢大然は内大臣府と、熊沢家を皇族としてどう扱ってもらうかの交渉に入った。だがその途中、明治天皇が崩御しうやむやになってしまう。大然はその後も交渉を続けようとしたが数年後に亡くなった。


 熊沢寛道は熊沢分家の生まれであったが、大然の養子となり、大然の遺志を受け継いで活動することを決めた。だが内大臣府は交渉を渋った。寛道はさらなる証拠資料を探す。そこで出会ったのが『富士宮下文書』だった。

 『富士宮下文書』は富士山麓の浅間神社の宮司の家に伝わる様々な時代の文書の総称である。時の権力者によって焚書の扱いを受け、しばらくの間隠されていたが明治16年に残された文書を公開したというものである。その中には後醍醐天皇~長慶天皇に関する文書があり、寛道もその内容を読む。後醍醐天皇の予言など興味深い記述があり、彼は夢中になった。さらに、南北朝時代以外の時代について記された文書にも目を向けると、そこには常識を覆すとんでもない内容があった。神武天皇以前に51代のウガヤフキアエズノミコトと号される神皇と24代の摂政が在位していたという記述だった。途方もない話だが、それ以降、寛道は何かに取り憑かれたようになったようだ。後醍醐天皇の予言では、自分の死後600年後に日本に恐ろしい災厄が降りかかるという。ならばそれはもうすぐだ。では南朝の皇胤である自分が真の天皇となって日本を救わねば。そして寛道は軍や政治の要人に自分こそ南朝の血を引く正当な天皇と称した上奏文を幾つも送り付けるようになる。それらはまともに受け入れられることもない、と思われたが……。


 昭和に入ると、寛道は熊沢信太郎という人物から自分も熊沢家の調査を行いたいから資料を送ってくれと連絡を受けた。熊沢家を盛り立てる同志と思った彼はその通りにしてやる。信太郎は新聞記者で、その人脈を活かし、地方の歴史研究機関や名士に掛け合ってお金を出してもらい、熊沢家の先祖の信雅王が隠れ住んだと伝えられる村を探索した。そして昭和7年に福島県にそれらしい村を発見する。信雅王にゆかりの史跡も見つかり、信雅王の追遠祭が開かれ、新聞にも大々的に取り上げられた。すると寛道が執念深く上奏文を送り続けていた要人たちの一部からレスポンスが返ってくるようになる。実は彼らは当時勢いを増していた国体明徴運動に賛同する者たちで、対立する学説である天皇機関説とそれを肯定する昭和天皇を苦々しく思っていた。このような思想を持つ者は軍の内部に多くおり、皇道派と呼ばれた。そして密かに彼らは理想の国体を作り上げるために新たな天皇を擁立してクーデターを起こそうと目論むようになっていた。この頃、国内外の問題で昭和天皇の意向すら無視する軍の行動にはそのような事情があったのだ。

 この頃から信太郎の様子が少しおかしくなり、菊花紋の羽織をまとい、身分の高い人物のようにひげを整え、寛道のことを分家の人間でしかないと触れ回るようになる。信太郎のこうした行動で寛道は彼を訴えようとしたが、功績があることから告訴は取り下げた。

 信太郎はさらに調子に乗り、眉唾な話ではあるが南朝がいつか盛り返すために蓄えていた埋蔵金があると言い出し、更なる探索を続ける。しかしそういったものは見つからなかった。

 国体明徴運動を支持するパトロンたちは新しい天皇の擁立のために権威の象徴たる物を欲しがり、天津教の教祖・竹内巨麿が所持しているという竹内文書にも注目していた。だがその話を聞いた熊沢寛道はそれは明治中頃に南朝ゆかりの寺から盗まれたものだと言い出す。この弁はまるっきり無根拠な出まかせというわけでもないようなのだ。竹内巨麿が所持していると公開したものは天津教の聖典である『竹内文書』の他に後醍醐天皇や長慶天皇の直筆文があった。これらを竹内は真の三種の神器と呼んでいた。『竹内文書』の内容は荒唐無稽だが、神武天皇以前に73代のウガヤフキアエズ王朝があったことなどが記されており、『富士宮下文書』など南朝との関係を容易に想起させるもので熊沢がパクられたものだと発言したのも無理はない。


 なお『富士宮下文書』も『竹内文書』も実際には大分県で発見された『上記(うえつふみ)』という古文書を下敷きにした偽書らしい。では『上記』は本物なのかというとこれも偽書らしいのだ。ただし、偽書と言っても編纂時期と編纂者が偽りというだけで、記述内容が全てデタラメだとは言い切れない。現在でもその内容を研究している人物は存在する。


 ともあれ昭和10年の晩秋、国体明徴運動家たちは信太郎を新たな天皇として招き会合を開いた。ここで参加者はクーデターに向けて連判状に署名し、血判を押す。南朝の悲願が叶えられる、と熊沢らは涙ぐみながら杯を交わした。

 そして翌年の2月26日、皇道派の陸軍青年将校によってクーデターの口火が切られる。内閣の大臣を次々と暗殺し、官庁や新聞社を制圧した。昭和天皇はクーデターおよびその首謀者たちを擁護する陸軍上層部に怒りを露わにし、自ら近衛師団を率いて鎮圧すると言い出す。天皇の本気を感じた陸軍上層部はただちにクーデターの鎮圧に乗り出し、これを3日で終結させ、指導した将校たちを処刑した。そしてクーデターの失敗と共に熊沢天皇の話も待機状態となり、やがて日本は戦争に突入してうやむやになる。


 昭和20年、敗戦した日本に駐屯するGHQ宛に書類が届けられた。熊沢寛道からのものだった。その内容は南北朝の歴史と南朝の正統性の主張そして「北朝の偽物の天皇(昭和天皇)を退位させて南朝の正統な後継者である私、熊沢寛道を即位させることに協力して欲しい」という請願だった。このことは米国のジャーナリストに知られることになり、熊沢は悲劇の皇統の末裔というようなニュアンスで新聞に載る。この新聞は翻訳されて日本でも読まれ、熊沢は一躍時の人となった。

 GHQは熊沢に協力を申し出る。熊沢は日本中で講演会をすることになるのだが、GHQはその行程をジープに乗せて送り迎えしてやった。熊沢は講演先で満員の聴衆から拍手を受ける。また、熊沢に便乗するように自分も誰それの天皇の血を引く天皇だと名乗り出るものが続々と現れた。中でも他の熊沢家の人間が名乗りを上げた時には、マスコミはやれお家騒動だと面白がって取り上げた。GHQとしては敢えてこのような状況を作り上げ、天皇(昭和天皇)への国民の崇敬の念を薄めてしまおうという狙いがあったようだ。

 しかし昭和21年、昭和天皇が"人間宣言"を行った後、全国の国民へ慰めと励ましのために巡幸を始めると流れが変わる。天皇は各地で歓迎され(もちろん、事前に失礼がないようにというお達しがあった)、GHQは自分たちが思っていた以上に天皇に人気があることを知った。とある新聞社の局長は熊沢と昭和天皇の会見を目論んだが、天皇側がそれを拒んだため実現には至らなかった。

 熊沢の演説に関し、不敬罪ではないかと疑問を抱く者も少なくなかった。同時期に、日本共産党員による天皇制反対の演説やデモ行進がなされていたのだが、その中に昭和天皇に対する誹謗中傷もあり、一緒くたに問題にされた形だ。そして熊沢も共産党員も不敬罪で一度は告発されるのだが結局は不起訴で終わった。当時はGHQの圧力も強く、こういった活動は保護されていた。

 余談ながら、この時告発された共産党の書記長は徳田球一という人物である。そのカリスマ性・リーダーシップから、党員から「天皇」とあだ名されていたという。天皇制反対を掲げる共産党の中にあって何とも皮肉な話である。


 GHQは1年余り様子を見ていたが、日本国民をまとめるにはやはり天皇が必要であるとの結論に達し、熊沢への支援をやめることにした。それでも熊沢は私財を投げ打って活動を続けた。熊沢は一族からも白い目で見られるようになった。

 そんな折、瀧川政次郎という法学博士が熊沢に接近し、しばらくの間熊沢と行動を共にする。彼は東京裁判で弁護人を務めた有能な人物で、また後南朝史もよく研究していた。瀧川は最初から熊沢に対し否定的な態度であったが、熊沢の言動を見聞きするうちにその見解を強めていった。ある時、熊沢が後醍醐天皇の予言を一筆したためたときに、瀧川は「後醍醐天皇は予言者ではないし、その言い回しは時代が合ってない」とツッコミを入れた。熊沢は「私が現代風に改めたのだ」と言い訳したが、瀧川は熊沢が偽物であると確信した。そしてかつて自天王が御所とした瀧川寺を紹介すると「もう軽挙妄動はやめて、ここで宮司として静かに過ごしたらどうか」と提案し熊沢のもとを去った。熊沢は瀧川の言葉をどう受け止めたのか……。それからしばらくして昭和26年、熊沢は昭和天皇を天皇として不適格であるとして告訴する。これには大衆も驚いたが、訴えはあっさりと却下された。そして歴史学者からは熊沢が提示した家系図は到底信用できるものではないと批判を受けた。熊沢の講演会もめっきり聴衆は少なくなり、劇場での見世物として苦しい活動をするようになった。

 昭和32年に、熊沢照元という人物が私こそ熊沢本家の人間だ、と名乗りを上げる。しかし野心を抱いてのことではなかった。彼は少年時代から熊沢寛道の親戚ということで「クマテン」とあだ名されて嫌な思いをしてきており、寛道の暴走を止めたいがための行動だったようだ。

 昭和35年になると、熊沢は天皇を批判しているという理由で日本共産党支持を表明。もはや熊沢は何のために活動をしているのかわからなくなってしまったようだ。共産党もこれに対し「我々が現在の天皇制を廃止させてその後で即位なさるのならどうぞ」と苦笑めいたコメントを返すのみだった。

 そして昭和41年、熊沢は居候していた支援者の家で亡くなった。新聞記事にもなったのだが、すでに過去の人の扱いでひっそりとしたものだった。

 実はその後も熊沢家は活動を続けている。もちろん天皇になりたいなどという大それたものではなく、原点に返った後南朝と熊沢家の歴史の調査・研究である。


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