ニセ朝香宮
明治末期の頃から日本ではブラジルへ移住して農場を働き口とする活動が盛んになっていった。その数は20万人近くにも及んだ。しかし慣れぬ土地でのこと、成功者もいれば失敗者もいた。さらに日本が戦争に突入するとブラジルの日本領事館が閉鎖され、貧困状態になっていた人々は満足に日本本国からの情報を得ることもできなかった。
昭和20年に日本が降伏した直後、その事実と共に「日本が勝利し、ブラジルの入植者を本国へ帰すための船がやがてやってくる」という噂も流れることになった。入植者のうちの富裕層はそれがデマだとわかったがそうでない層の人々のうち戦勝派と敗戦派とで対立が起き『敗戦というのはスパイが流したデマだ』ということでそれを唱える人々が殺されてしまうという事態も起こってしまった。
昭和27年、日本から皇族の朝香宮が来伯し、農場を開くので入植者を募集するという話が伝わってきた。その募集の名目は、ブラジルへの入植者は日本精神を忘れ、今帰国しても辛い思いをするだろう。だからしばらく皇族の運営する農場で働くことで精神修練をしたら本国行きへの船に乗せよう、というものだった。この募集に多くの入植者家族が集まった。
日本では戦後ほとんどの宮家が皇籍離脱しており朝香宮も同様だった。しかしそのような情報も彼らには伝わっていなかった。日本の戦勝を信じたいという気持ちで聞こえなくなってしまっていたのかもしれない。
朝香宮を名乗ったその人物は皇族とは何の関係もない加藤拓治という日系人だった。
農場で働く彼らは迎えの船が来るということを信じて長いことタダ働きをさせられたが、さすがにおかしいと思って領事館に駆け込む人々が現れ詐欺が発覚。加藤拓治とその仲間は逮捕された。
だがそれでも日本の戦勝を信じたい人々は信じ続けた。昭和48年、ブラジルから帰国した入植者は復興した日本の姿や皇居を見て「これが敗戦国のわけがない。日本は勝ったのだ」と言ったという。