司王国皇帝
日本は戦時中、価格等統制令が発生され、国民の食糧をはじめとした生活必需品は配給制となった。
日本本土が戦地となると連合国軍の爆撃のために流通は乱れ、さらに敗戦で日本の領土だった外国に住んでいた日本人は一斉に引き揚げ、都心部の人口は急激に増えることになった。
このような状況で政府が準備していた配給物資は枯渇し、多くの人々が餓死あるいは栄養失調で亡くなった。そのため人々は法律違反と知りながらも命には代えられず、違法ルートで物資を求めた。そのような物資を扱う場は闇市と呼ばれた。
石川養治は山形県出身の大学生であったが、在学中に軍に入ってパイロットとなった。終戦となり故郷へ戻ってきたが復学することができず、昭和21年に国鉄の鉄道教習所へ入学した。ここへ行けば給料をもらいながら勉強ができたのだ。
そして石川は戦後の東京の悲惨さを目の当たりにし、大学時代の友人や鉄道教習所の仲間に声を掛け、食糧不足で困っている人たちに故郷の庄内地方で採れた米を届ける担ぎ屋集団を密かに結成した。そして遊び心でその集団を「司王国」と名付け、自身はその皇帝として即位した。石川は大学を中退してから鉄道教習所に入学したためやや周りよりも年上で、さらに軍属していたこともあって敬意を込めて「皇帝」というあだ名で呼ばれていたのだ。彼の母方の先祖は平安時代の自称天皇こと平将門だそうだが、それはこの名乗りには関係ない。
司王国の活動は、鉄道教習所の在籍がアドバンテージとなり、要領よく警察の目を盗んで汽車に乗り込んだり、国鉄の職員から鉄道の運行情報を入手したりした。メンバーは運んできた米を東京の欲しがる人たちに物々交換で渡し、その報酬として親族や自分自身が食べるための米をもらった。
彼らの闇米運搬活動は、まれに失敗することもあったがおおむね巧くいっていたようだ。だがその活動も3年で終わることになる。なんのことはない、鉄道教習所の教習期間が3年で終わり、日本各地に配属されることになるからだ。また、日本の食糧事情もその間に少しずつ改善され、彼らが活動する必然性もなくなっていったのだ。もっとも、昭和25年に大蔵大臣の池田勇人が「貧乏人は麦を食え」発言をして問題になっていることからも米に関してはまだまだではあった。
鉄道教習所を卒業した彼らは未練なく司王国を解散し、それぞれの道を歩んでいった。
長い文章を要する自称天皇はもういないので、次回はその他の自称天皇をまとめて書きます。