酒本天皇
後花園天皇の在位時、南朝方の武士が御所を襲い三種の神器を奪って南朝後胤の皇族に捧げられたが、やがて奪い返されて元の場所に戻された。正史ではそうだが、伝承によっては奪い返されておらず、美作国(現在の岡山県)の植月地方にひそかに作られた御所へ安置され代々引き継がれていったという。それらは俗に美作南朝・美作後南朝と呼ばれた。
室町幕府・徳川幕府といった時の権力者たちから身を隠しおよそ250年近くも続いたといわれているが、密かに朝廷とコンタクトをとっており、寛永3年に後水尾天皇は美作南朝の高仁親王に譲位したという。だが、その数年後に江戸幕府はその天皇を廃位し、その血を引く良懐親王の親王号も剥奪、やがて謀殺されたという。だが皇女は生き残っており、酒本家に入った。
なかなかに信じがたい話である。史実でも後水尾天皇と徳川幕府との関係は悪く、徳川を皇室の外戚にしたくなかったということは考えられる話であるが、南北朝の確執の歴史や三種の神器など真偽不明の情報で後水尾天皇が簡単にそれを認めるとも思えない。
戦後、郷土史家がこの美作後南朝に関して研究をしていたのだが、モーゼの自然石が御所に伝えられていた、とか研究内容を出版した後、宮内庁から圧力をかけられて無理矢理精神病院に入れられたとか胡散臭い話があり、この説の信憑性を失わせている。
酒本家の子孫が酒本正道である。戦後になって熊沢寛道が南朝の子孫として名乗りを挙げると、それに張り合うように自身も家系図を公表して天皇の子孫を名乗った。だが歴史学者の渡辺世祐博士はどちらも偽作の系図だと断じた。酒本は南朝研究家の藤原石山に、何とか証拠になるものはないだろうかと手紙を送って相談したが、藤原は後南朝に関して美作のほうの伝承にはあまり興味がなく酒本の望むような返事は無かった。酒本は家族が病気で生活が苦しいと泣き落としのような文面も書いたらしいが天皇の子孫として認められることで何らかの利益を期待していたようだ。
その後の酒本がどうなったのかは不明だが、わかる範囲では、酒本は地元の如意輪観音堂の観音像を自宅に持ち帰って祀り、名光寺正真と名乗るようになったという。如意輪観音というのは後醍醐天皇および南朝方の武将が勅願としていた仏像だ。そして酒本の親族は「酒本同族会」を結成して美作南朝や酒本家についての石碑を作るなどの活動を続けて現在にいたっているようだ。