大陸暦1976年――04 特別ということ2
「でも、本当にそういうのじゃないの?」
フラウリアの顔色が戻ったころ、アルバは改めて訊いてみた。
またからかわれるのかとフラウリアは一瞬、警戒を見せる。だが、アルバの表情で今度は真面目に訊かれているのだと気づき、困ったように眉尻を下げた。それから少し迷うように視線を動かすと、最後には目を伏せて口を開く。
「正直、自分でも分からないのです。私にはその、そういう経験はありませんから。……でも」
「でも?」
アルバが優しく促すと、フラウリアは伏せていた目を上げた。
「私にとってベリト様が特別なのは間違いありません」
そう言ったフラウリアの眼差しは、真剣でどこまでも真っ直ぐだった。
その顔には先ほどまでの羞恥や動揺などは全く浮かんでいない。
そんな彼女にアルバは驚きを感じながらも、それでも目を伏せて小さく微笑んでから「そうか」と返した。
「おかしい、でしょうか」
するとフラウリアが不安げにそう訊いてきた。
もしかしたら自分の態度が気を使っているように見えたのかもしれない。そういうつもりではなかったのだが。
「いいや。全然」
アルバは誤解を解くようにいつもの調子で答えると。
「あぁでも、きっかけは気になるかな」
話の流れでそう訊いてしまっていた。
フラウリアが何故、最初からベリトを慕っていたのか――そのことは前々から気になっていたことではあったが、アルバはそれを無理に知りたいとも本人にそれを訊くつもりもなかった。しかし、ここで話題を変えるのも何だか不自然な気がしてつい、そう口にしてしまっていた。
訊かれてフラウリアはまた困ったように眉尻を下げた。
やはり踏み込むべきではなかったかと、アルバは慌てて弁解する。
「いや、別に言いたくなければいいんだ」
「いえ。そういうわけではないのです。ただ、それにはまず私の怪我のことを話さなければならなくて」
「それは言わなくていいよ」
え、とフラウリアが驚く。
「知ってる」
「ユイ先生に?」
「うん」
アルバが知っているフラウリアの秘密はそれだった。
もちろんアルバも最初はユイからフラウリアは事故にあったのだと聞いていた。
詳しい事故の内容まではユイも説明しなかったが、事故と言うからには馬車か何かに轢かれたのだろうと思っていた。
しかし、フラウリアが目覚めたあと初めて清拭をしてあげた時に、気づいた。
これは刃物傷ではないかと。それだけではない。フラウリアの体には、火傷跡らしきものや肉を削いだものなど、様々な種類の傷跡が残っていた。それをアルバが認識できたのは、鍛冶場で働く父親に似たような傷があったのを覚えていたからだ。
だから気になってユイに訊いてしまったのだ。フラウリアは本当に事故にあったのかと。
「でも誤解しないでくれ。私が不思議に思って訊いたんだ。いや問い詰めたと言ってもいい。先生は仕方なく話しただけだし詳しくも聞いていない」
そう。ユイは悪漢に捕えられてしまったと答えただけだ。だが、それで想像がつかないほどアルバも育ちがよいわけではない。
「そうだったのですか」
「ごめん。黙ってて」
フラウリアは微笑んで首を振る。
「いいのです。それを知られることに関しては私自身、何とも思っていませんから」
その口振りはアルバに気を使っているような感じではなかった。
それでアルバも気づく。その出来事の記憶自体がないフラウリアは、そこから生じる感情そのものがないのだと。先ほど困った素振りを見せたのも話したくなかったのではなく、聞かせられたほうの気持ちを考えてのことなのだろう。
「それで」フラウリアが言った。「その時に私はベリト様に助けてもらったのです」
「え。クロ先生がフラウリアを助けたの?」
「あ、いいえ。助け出してくださったのはルナ様で」
「あぁ」
やっぱりそうか、とアルバは思った。
アルバは以前から、フラウリアの件にはイルセルナが関わっているのではないかと考えていた。それは去年、イルセルナが図書館までフラウリアを呼びに来た時から思っていたことだ。
基本的にイルセルナは初対面の見習いに対して積極的に交流を試みる。あれやこれやと気さくに話しかけて、王族という立場から遠慮や警戒を見せる見習いの心を開かせようとするのだ。
しかしフラウリアの時だけは違った。あの時のイルセルナは変に大人しかった。それだけではない。フラウリアを見る目付きもどことなく優しかったように思う。
初対面の人間に向けるには違和感を覚えるぐらいに――。
それもイルセルナがフラウリアを助けたのならば納得がいく。
「じゃあユイ先生が頼んだのか」
「先生が?」フラウリアが目を見開く。
「だって教え子だし」
「私が、ユイ先生の?」
「聞いてなかったのか」
怪我の理由を知ったのなら、その辺りも聞いているのかと思ったのだが。
「悪い。言っちゃいけなかったかな」
「いえ。実は薄々、そうではないかと思っていたのです。教えて頂いてたまでは考えていませんでしたが、以前にもお会いしたことがあったのではないかと。やはり、そうだったのですね」
そう言ってフラウリアは染み入るような微笑みを浮かべた。
それはユイの態度から気づいていたのだろうか。それとも記憶がなくても感じうるものがあったのだろうか。その辺りも少し訊いてみたいと思ったが、それよりも今は続きが気になったのでアルバは話を戻すように言った。
「それなら、治療をしたのがクロ先生とか?」
「いえ、それも違って。それは他の神星魔道士様だと聞きました。そうではなくて」
そこでフラウリアは言葉を選ぶかのように視線を動かすと、再びこちらを見て言った。
「ベリト様には、心を救っていただいたのです」
その心に触れるかのように胸に手を当てて。
「――そっか。実はずっとさ、不思議に思っていたんだけど、なんかやっと腑に落ちた気がする」
そう答えると、フラウリアが少しばかり意外そうな顔をした。
「信じてくださるのですか」
どうやらフラウリアはアルバがそれだけで納得するとは思っていなかったらしい。
その気持ちは分かる。誰かを特別に思うきっかけが心を救ってもらったからというのは、相手を納得させるには少し曖昧で言葉足らずではある。普通ならばそこに至るまでの経緯を話すだろうし、聞くほうもそこが気になるものだろう。
だが、それが言えないのだろうことは、フラウリアの様子からしても何となく察することができる。そもそも言えるのならば、彼女の律儀な性格からして最初から話してくれている。それなのにそこを省いたということは、つまりはそういうことだ。
それでもアルバには、そんな経緯など聞かなくてもそれだけで納得するのに十分であった。
「それなら逆に聞くけど、お前は信じられないのか?」
アルバの問いかけに、フラウリアは何のことだろうとでも言うように瞬きをする。
「私がユイ先生を慕う理由を、心を救われたからと言ったら」
「それは信じています。お話していただいた時から」
身を乗り出すように即答したフラウリアに、アルバは笑みを漏らす。
「それと同じだよ。それに言ったろ? 誰かに救われるということはそれだけでその人を仰ぎたくような大きな力があるって」
そう。救われたものにとって重要なのは経緯ではない。
本当に大事なのは心を救われたという事実そのものだ。
それが何よりも大きなものとして心に刻まれている。
だからこそアルバの言うことをフラウリアは信じられたのだろうし、フラウリアが言うこともアルバは信じられる。
心を救われたというその言葉だけで理解できる。
だって同じだから。
同じだからこそ、その気持ちがよく分かるから。
「それは、はい」フラウリアは微笑んで頷く。「その通りだと思います」
同意するフラウリアに、どうりで、とアルバは内心で苦笑した。
どうりで彼女を見ていると自分と重なるわけだ――と。
「ところで」フラウリアが思いついたように言った。「アルバさんは希望されるところは決まったのですか?」
配属先のことだ。以前に訊かれた時は、まだ考え中と返していた。
はぐらかしたわけではない。実際に迷っていたのだ。
自分の気持ちを優先させるか、それとも離れるべきか、と。
だが結局は、後者を選ぶことなどアルバには出来なかった。
「ユイ先生、言わなかったんだな」
「え? はい」
「ここだよ」アルバは下を指さす。
「え」
「ここ。もうここに決まってる」
先週、気持ちを決めたアルバは、可能ならばルコラ修道院で働きたいとユイに希望を伝えた。
するとユイは引退する人と国外に出向する人で二人欠員が出るので、その代わりをアルバにお願いしようか考えていたのだと言ってくれた。アルバは面倒見がいいのでここが向いていると思うからと。
そのことはアルバも本当に嬉しかった。自身が預かる修道院の職員に、誰でもない自分を選んでくれるなんて。
だから決まったことをすぐにフラウリアにも報告したかったのだが、彼女の中央行きがどうなるのか分からなかったので言うのを我慢していたのだ。
それでもいつまでも黙っておくことはできないので、フラウリアの配属が決まってから話そうと考えていた。ユイにもそれまでフラウリアに言わないようお願いしていたのだが、どうやらそれを守ってくれていたらしい。
「本当ですか」フラウリアが顔を明るくして驚く。
「そんな嘘を言ってどうするんだよ」アルバは苦笑する。
「嬉しいです」両手のひらを合わせてフラウリアは笑った。「卒院しても一緒にいられるなんて」
その顔が本当に嬉しそうなものだから、ついアルバも釣られて頬をあげてしまう。
「こちらにされたのは、ユイ先生がいらっしゃるからですか?」
臆面もなくフラウリアがそう訊いてきた。その顔からして他意がないことは分かる。
「まあ。そういうことになるかな」
アルバは気恥ずかしさを隠しながら肯定する。本当は誤魔化したかったのだが、ここで否定するのも何だか変な気がしたのと、先ほど人のことを散々突いた身としては流石にそれをすることは悪い気がした。
「それなら私と理由は一緒ですね」
そう言ってフラウリアが屈託のない笑顔を浮かべる。
そんなフラウリアにアルバは内心で苦笑した。
フラウリアは深い意味もなく、純粋に理由が一緒なのを喜んでいる。
だが、アルバからしたらそうではない。
全てが一緒だ。
その理由も、そこに至る感情も、何もかもが全て。
感情についてはまだ、フラウリアは分からないと言っているが、アルバからしたら分かりきっている。
何がきっかけであれ、誰かを特別に思う先に行き着くのは、そういうことだということを、彼女はまだ知らないのだ。