大陸暦1975年――02 呼び出し1
最後の長椅子を拭き終わり、私は屈めていた身体を伸ばした。
視界には丁度アルバさんがいて、彼女は祭壇横に設置されているグランドピアノを丹念に磨いている。
ここは修道院に併設されている礼拝堂だ。
今は午前中の掃除時間で、私とアルバさんは今月ここの掃除を担当している。とは言っても私が掃除に参加するのは今日が初めてで、これまでは他の見習いの子が手伝ってくれていたのだとアルバさんが言っていた。
私は近くに置いていた水バケツで雑巾を洗うと、礼拝堂の入口へと向かう。
修道院の礼拝堂は信徒のために解放されることはないので、星教会のような規模はない。それでもこの修道院にいる全員が集まっても席数が余るぐらいの広さはあり、二人だけで掃除をするとなるとなかなかに労力を要する。だからかここの掃除は図書館と並んで見習いには好まれないらしい。早く終われば残りが自由時間となる掃除時間が、ここだと時間いっぱい終わらないからだ。
でも私はここの掃除を大変だとは感じていても、苦ではなかった。それどころか掃除をするのが楽しくてたまらない。
それは今まで掃除というものに縁がなかったからだろうと思う。
掃除は安住地もなく生きるのに精一杯の孤児には必要のない行為だ。雨の日や施しの日に衣類や身体を洗うぐらいはするけれど、それ以外の何かを綺麗にしようだなんて考えはそもそも生まれもしない。
だから今こうして掃除をすることができて本当に嬉しいし楽しい。
この行為がとても幸せなことなのだと分かっているから。
これだけでも普通の生活が送れているのだと実感することができるから。
礼拝堂の入口に着いた私は、最後の掃除箇所である扉を見た。
入口の扉は年季が感じられる艶やかな木製で、私が手を伸ばしても届かないぐらいの高さがある。一応、高所を掃除するための脚立があるにはあるのだけれど、危ないから高所は自分がするとアルバさんに言われているので使うことはできない。なので私は下のほうから取りかかる。
扉下の部分を拭き、中程の取っ手あたりに差し掛かる。
その時、雑巾越しに違和感を覚えた。
「……?」
私は空いている左手で取っ手回りに触れてみた。滑らかな木板の感触とは別に何かを感じる。
たとえば肌で風を受けたときのような、実体のないものに触れている感覚が。
その掴み所がない感触が何とも不思議で、扉に触れそうで触れない動作を繰り返していると、それが変に映ったのかアルバさんが「どうした?」と声を掛けてきた。
「いえ。何だか気になって」
こちらへ歩いてくる彼女に私はそう返す。
「何が?」
「説明が難しいのですが、ここに何か感じるような……」
アルバさんは訝しげに眉を寄せた。その反応は無理もない。こんな掴み所のないことを言われては、誰でも返す言葉に困ってしまう。でも私自身がこの感覚がなんなのか分かっていないのだから、説明ができなくても仕方がないといえばない。
それならばいっそ黙っておくべきだった、と後悔しかけていると、アルバさんは「ああ」と思いついたように眉をあげた。
「もしかして防音結界のことか」
「防音結界?」
それぞれの単語の意味は知っていたけれど、その言葉自体は初耳だった。
「この礼拝堂には外に音が漏れないように防音の結界が張られているんだよ。ほら」
アルバさんが扉に手をかざすと、扉からぼうっと光の筋が浮き出てきた。その光は幾何学的な紋様になっており、扉を基盤として礼拝堂全体に行き渡る。
私はその光景に目を見はった。
光放つ紋様に彩られた礼拝堂の姿は美しく、とても神秘的だった。
今は外が明るいので紋様の発光具合が控えめに見えるけれど、日が落ちた夜だともっと幻想的で神秘性が増すだろうと思う。
「綺麗ですね」
礼拝堂の天井のアーチを見上げながらそう言うと、隣でアルバさんが「うん」と同意してくれた。
「結界は魔法学全般を学んで習得さえすれば誰でも貼れるようになるけれど、これみたいに見た目も綺麗な結界を貼れる――紋様を描ける人は少ないらしい」
「ではこれを描いた人は、凄い方なのですね」
「ユイ先生だよ」
アルバさんを見る。彼女は私と目を合わせて微笑むと、入れ替わるように礼拝堂を見上げた。
「これを描いたのはユイ先生」
「ユイ先生が。凄いですね」
「うん。凄いよな」
そう言ってアルバさんは目を細めた。その眼差しは紋様の美しさに感動しているのとは別に、これを描いた人――ユイ先生への敬愛も浮かんでいるように見える。
きっとアルバさんはユイ先生を尊敬しているのだろう。もちろんそれは私もだけれど、彼女は私よりもその気持ちが強いように感じる――と、なぜか私は彼女の眼差しを見ていてそう思った。
アルバさんはまだ礼拝堂を見上げていたので私も再度、顔を上げる。
紋様は先ほどよりも光を失ってきていた。
「ずっと光ってるわけではないのですね」
「今のは魔力を流して可視化させただけだから」
「動いてる時も光らないのですか?」
「うん。基本、結界というものは可動してても目には見えないんだ」
「そうなのですか」
そんな会話をしながら紋様が消えゆく様を見守っていると、ふと私はあることに気がついた。
「ですが部屋にいたときには」
そこまで口にして私が言わんとしていることが分かったのか、アルバさんはすぐに答えてくれた。
「そう。普段は切ってある」
昨日まで私は礼拝の時間は自室におり、その時には礼拝で歌われる星歌とピアノの音がかすかに聞こえてきていた。それを不思議に思ったのだけれど、結界が切られているのなら納得ができる。でもそうなると。
「これはいつ使うのですか?」
次なる疑問はそれだった。普段は切っているとなると、近隣に配慮して礼拝の音が外に洩れないようにしているわけでもないらしい。
「まあ、夜にピアノを弾いたり、歌ったりする時かな」
「練習ですか」
「いや。密会」
「え」
想像だにしなかった言葉の登場に、思わず私はきょとんとしてしまう。
そんな私を見て、アルバさんは楽しそうに笑った。
「冗談。でも凄いな。知らずにこれに気づけるなんて。魔法の高位素養者は粒子の流れが視えるって聞いたことがあるけど、本当なんだな」
そうなのだろうか。でも確かによくよく思い出してみると、子供のころから違和感を覚える場所というものがあった気がする。その時はそれに考えを割くような余裕がなかったので、気に留めることはなかったけれど、今思えばあれもそうだったのかもしれない。
「さて、あとはここだけだから終わらしてしまおう」
アルバさんはそう言うと、近くに置いてある脚立を取りに行った。
拭き掃除が途中だった私も扉へと向き直る。と、丁度その時、扉が奥へと開いた。
開いた扉の前にいたのは修道女様だった。
彼女は「お疲れさまです」と小さく礼をすると続けて言った。
「フラウリア、掃除が終わったら院長室へ行ってください。レシェント院長がお呼びです」




