大陸暦1975年――03 残された温もり
修道院を出た頃には、足下は完全に白い雪で覆われていた。
足を踏み出す度に、ざく、と靴底で雪が圧縮された音が鳴る。
雪は行きと変わらず降り続いている。今はまだ靴が埋まるほどの積雪量ではないが、夜通しこの調子で降り続ければ、朝方にはそれなりに積もるだろう。
私は人気のない静かな夜の大通りを、ざくざく、と音を鳴らしながら歩く。
歩きながら、先ほどの出来事を思い起こしていた。
フラウリアに手を掴まれた時のことを。
あの時、手から視えたのは、今朝、私の元へと行けなくなったことへの落胆の記憶と、回りに迷惑をかけて申し訳ない気持ち。
そして、私が見舞いに来たことに対する喜びだった。
そう、フラウリアは喜んでいた。
濁りのない色で、ただ純粋に――。
……普通、この能力で視せられる感情はどんなものでも良い気分はしない。
それなりに知った仲ならば不快までとは思わないが、それでもやはり他人の感情が内に流れ込んでくるような感覚には違和感などを覚えてしまう。
だが、フラウリアはそうではなかった。
強引に手を握られた時も、抱きしめられた時も、そして先ほども、あいつから伝わる感情に私は不快どころか違和感すらも覚えない。
それどころか、心地よいとまで思ってしまっている。
これまで何も視せてくることのない死んだ人間からしか得られなかった安らぎを、死者の冷たいものとは違う生者の暖かい安らぎを、私はあいつの感情から感じてしまっている。
他人の感情を、何の抵抗も無く受け入れられてしまっている。
それはフラウリアの根源の白さが成せるものなのか、それともあいつの心に触れた影響なのかは分からない。
――そう、私は記憶を引き受ける前にあいつの心に触れた。
ただ記憶だけを取ればことは済んだというのに、触れてしまった。
見ていられなかったのだ。
あいつの心が泣いているのを。
心を壊してまでも人を気づかうあいつを。
自分の涙を拭うこともせず、人の涙を拭おうとするあいつを。
原因である記憶さえ取り除けばいずれ壊れた心は修復される――泣き止むことは分かっていたのに。
それでも、泣いている幼子を見ていたら、慰めずにはいられなかった。
フラウリアが最初から私に無警戒なのも、変に信頼してしまっているのも、そのことがあるからだろうと今なら分かる。
記憶はなくとも、心が覚えてしまっていることを。
私に触れられたことを――心を救われたことを。
本当ならそれは、してはならないことだった。
一方的に人の心に触れるなど、相手を侵害する行為に他ならない。
あの時はフラウリア自ら心を開いたとはいえ、あれはあいつから流れ込んだ感情に苦しむ私を助けるためにしたことだった。私という人間を信頼して心を開いたわけではない。私はただ、あいつの優しさによって招き入れられただけなのだ。
そんな私には本来、あいつの心に触れる権利などなかった。
触れては、いけなかったのだ。
――だが、それでも。
そうと分かっていても、それが間違いだったとは思いたくない。
今のあいつとの関係がそこから生まれたものだというのなら、否定したくはない。
……自分が、誰かに対してこんなことを思うなんて考えもしなかった。
歩きながら左手を見る。
手袋もはめていないその手にはもう、あいつの温もりは少しも残ってはいない。
それどころか夜の寒さで、自分の体温すらも奪われている。
とっくに手は冷え切っている。
それでも。
どうしてか、寒さは感じなかった……。




