黒い霧
そこには多くのものがあった。
どこを見ても目に入るのは輝く光。
真っ白な世界に点在するは記憶の欠片。
それは少女が夢にまで見た普通の生活。
それは少女が手に入れることができないと思っていた平穏な日常。
その光り輝く記憶の欠片を、いつも少女は眺めていた。
一つ一つをまるで宝物のように見つめていた。
けれどある時、少女の真上に亀裂が走った。
継ぎ目もない白い世界に、黒い一筋の溝が。
瞬間、少女の胸は強く締めつけられた。
少女は胸を押さえ亀裂を見上げる。
裂け目からは黒い霧が吹き出している。
その黒い霧は白い世界を漂うと、次々に光を飲み込んでいった。
まるで少女の記憶を――宝物を蝕むように。
それを見て少女は逃げなければいけないと思った。
なぜかは分からないけれど、そうしなければいけないと。
その場から離れようと少女が足を踏み出す。
するとそれに感づいたかのように、黒い霧が少女目掛けて飛んできた。
少女は走った。
その短い手足を一生懸命に動かし走った。
亀裂が増え続ける白い世界を走りつづけた。
しかしいつになっても、飛翔する黒い霧を振り切ることはできない。
次第に息が上がってくる。
足が重くなり、速度も落ちてくる。
そしてついには足がもつれ、少女はその場に倒れ込んだ。
少女はすぐに起き上がろうと手をついた。
だがその時、白い大地に雫が落ちる。
涙だった。
少女は泣いていた。
それは転んだからではない。
転ぶ前から少女は泣いていた。
走りながらずっとずっと涙を流していた。
世界に亀裂が走る度に締めつけられる胸が痛くて。
それがなぜか、どうしようもなく悲しくて。
それでも少女は諦めなかった。
再び足に力を入れた。
涙を拭うこともせず、胸の痛みに耐えながら立ち上がろうとした。
けれども黒い霧はすでに少女に追いついていた。
取り囲むように少女の回りを漂っていた。
逃げ場を失った少女は、座り込んだまま呆然とその光景を眺める。
そんな少女に黒い霧は囁いた。
少女にはそれが何を言っているのか分からない。
分からないのに、それは酷く恐ろしいもののように感じた。
その囁き声は次第に増え、ざわめきとなって少女を襲う。
少女はそれに耐えきれず、手で耳を覆った。
その黒い声から逃げるように、きつくきつく耳を塞いだ――。




