大陸暦1975年――02 特別
「ある時、腹部を刺された若い男が運び込まれた。その男の友人によると、そいつは酒場で飲んでいたところ、酔っ払って暴れていた客を止めようとして刺されてしまったらしい」
いらん正義感を出した結果だ、と続けて口に出しかけて止めた。
似たようなことをしてきたフラウリアの前でそれを言うのは流石に憚られた。
「男の刺傷は深く、内臓は酷く損傷を受けていた。それに加え、酒場から治療院まで距離が離れていたことから運ばれるまでの間に血を流しすぎていた。来たときにはもう殆ど、死にかけだった。それでも魔法はかけたが、一時もせずにそいつは死んだ。高位治療魔法、神星魔法なら助けられたかもしれないが、生憎、壁近にそんなものを使える奴はいない」
それこそ、フラウリアも身に染みて分かっているだろう。
「別に助けられなかったのは、それが初めてというわけではない。むしろ、荒事も犯罪も多い壁際では助けられないことのほうが多い。……だが、助けられなかった奴の星還葬に参列したのは、それが初めてだった」
それは何も、好き好んで参列したわけではない。
知り合いならともかく、助けられなかった人間の葬式に参列したいわけがない。
それでも行ったのは、死んだ男の友人に誘われたからだ。
そいつは捨てられて壁近に流れ着いた自分を助けた、お節介な人間の一人だった。私が闇治療士に引き取られてからも、ずっと気にかけてくれていた。恩が、あったとも言える。
だから無下に断ることができなかった。
「葬式には多くの人間が参列していた。誰もが早すぎる男の死を嘆いていた。男の亡骸に縋るものや、男を殺した人間に復讐すると喚いているやつもいた。そいつは、好かれていたんだ。その光景を見ていて、思った。どうして、助けられなかったのかと」
闇治療士の元へと訪れるのはまともではない人間が多い。後ろめたいことがある奴はもちろんのこと、犯罪者も気軽にやって来る。そういう奴らは死と隣り合わせで生きているからか、仲間が死んでもそれを軽く受け入れる傾向にある。悲しみ嘆くよりも、ヘマして馬鹿だなと笑い飛ばしたりするのが普通だ。
闇治療士に引き取られてそういう奴らばかり見てきた私は、人の死というものはそういうものだと思っていた。自分で治療するようになってからも、患者を助けられなかったところで何の感情も浮かんでくることはなかった。
だが、その時は違った。
まともな人間の葬式に参列して、私は初めて知った。
人とは本来、死を悼む生きものなのだと。
人の死は、これだけ回りの人間に影響を与えるものなのだと。
それを目の当たりにし私は初めて、命を救えなかったことに悔しさというものを覚えた。
「だから考えた。水魔法の治療魔法の効果を上げる方法を」
「それで」
フラウリアが呟く。私は視線で頷く。
「幸い、とでも言うべきか遺体を調達するツテはあった。知り合いが壁区の身元不明遺体を片付ける仕事をしていたんだ。そいつに状態が良いものを運んでもらい、解剖してから遺体袋に戻して引き渡してもらった。そういう身元不明遺体は遺体袋ごとまとめて星還される。魔法で冷凍保存するにしても、わざわざ職務怠慢な役人が中を検めることはない」
それでも念のため、解剖した遺体は引き渡す際に、野犬に食われ損傷が激しいと報告してもらっていた。それなら稀に真面目な役人がいたとしても、わざわざ中を検めようとはしない――そう、当時は思っていたのだが……その考えが甘かったことに気づくのはまた別の話だ。
「それでは人を助けようとなさって、始めたことなのですね」
フラウリアは心なしか明るい声でそう言った。
自分と同じ気持ちを私が持っていたことが嬉しかったのだろう。
だが、それは全くの思い違いだ。
私とフラウリアでは、人を助けるという意味に大きな違いがある。
こいつは人のために人を助けたいと思っている。
その気持ちの根底に色々はあれど、ただ純粋に人を助けたいと思っている。
しかし、私は違う。
私が人を助けるのは全て、自分のためだ。
治療学を学んだのも、自分を引き取った闇治療士に借りを作りたくなかったからだ。そいつの仕事を手伝うことで、役立たずではないことを証明するためだ。
治療していたのも仕事だからしていたことで、人を助けるためではない。
あの葬式の時にあんなことを思ったのは……ほんの気の迷いだ。
悲しみに包まれた雰囲気に飲まれてしまっての。
それでも切っ掛けがそれだったことには違いない。
だが――。
「そう思ったのは最初だけだ」
「え」フラウリアは驚くように私を見た。
「私は人体を理解しても解剖を止めなかった」
「どうして」
「死者は何も語らないからだ」
星教は説いている。遺体を火葬しないと体から魂は――心は離れないと。
だが、それが違うことを私は知っている。
肉体が死すれば、そこには何も残されてはいない。
それが勝手に魂が離れた結果なのか、消滅したのかは分からないが、そうなのだ。
だから触れても、何も視えることはない。
記憶も、感情も、一方的に視せられることはない。
「それが……心地よかった」
冷たい死者に触れたことで、私は初めて普通の人間の感覚というものを知った。
普通の人間が生者で得られる感覚が、私は死者でしか得られなかった。
死者に触れている時だけ、普通になれた気がした。
そこに私は……安らぎのようなものを見出していた。
「まぁ、それを続けていたせいで、運悪くセルナに見つかった。それで色々あってあいつの治療士を引き受けることになり、ここに連れてこられたってわけだ」
そうして私は話を締めた。
そして話し終わって思う。随分と、余計なことまで話してしまったと。
本当は、こんなことまで馬鹿正直に話す必要はなかった。壁近で治療士を続けていたことで思いついたと、それを教えるだけでよかった。だというのに話し始めてみれば、私の口は止まらなかった。
こんな話をしても普通は受け入れられるはずがないのに、いや、それどころか気味悪がられるのがオチだというのに。それでも、何故か不思議と後悔はなかった。
フラウリアは何かを考えるように目を伏せていた。
だが、やがて顔を上げると微笑んで言った。
「話してくださって、ありがとうございます」
その顔にも、声にも、無理をしているような感じは見受けられない。
しかし、だからといって安心もできない。取り繕っている可能性もある。本心では私に気を使っているのかもしれない。
「無理に受け入れようとはするな。誰にだって受け入れられないことはある」
気を使われるのは御免だった。だから、そう言ったらフラウリアは何故か意外そうな顔をした。
「ベリト様にもありますか? 私の受け入れられないところが」
「受け入れられない、というか、理解できないことはある」
「何でしょうか?」
「お前が誰に対しても平等なことだ」
フラウリアが助けたいと思う対象には区別というものがない。
善人と悪人の両方が怪我をしていたら、こいつは必ずどちらとも助ける。
そこに対する思いの違いなどは一切ない。
しかしそれは、この世には根っからの悪人はいないからとか、善人も悪人も同じ人間だからとか、甘い考えから生まれた行為ではない。
お人好しのフラウリアにも善人と悪人の認識ぐらいはある。人がみな生まれながらにして平等ではないことも理解している。
それでもこいつはどんな人間でも平等に見ることができる。
どんな極悪人でも、善人と同じく接することができる。
たとえ酷い仕打ちを受けた相手でも、何の迷いもなく助けることができる。
それをこいつが自然とできてしまうのは、生まれ持った心の白さによるものだ。
人の暗い感情に触れても絶対に濁ることのない。
混じり気のない白い心を持っているからこそ為せることだった。
「だが、それがお前だろ」
そう、だから私はそれを否定するつもりはない。
今後もその行為を心から理解することはできないだろうが、反発心を抱くこともあるかもしれないが、それでも私は認めている。
これがフラウリアだと。
これこそがフラウリアという人間なのだと。
そんな奴だからこそ私は、助けてやりたいと思ったのだ。
二度と使わないと決めていた力を使ってまで、助けたのだから――。
フラウリアは目を見開いていた。まるで何かに気づいたかのように。
やがて下を向いたかと思うと、小さく笑みを漏らした。
「私は少し、難しく考えすぎていたのかもしれません」
一人納得するような口調に、眉を寄せてしまう。
続けてフラウリアは「でも」と呟くと、こちらを見上げてきた。
「ベリト様は一つ勘違いをされています」
……勘違い?
「私は誰にでも平等というわけではありません。私にだって特別はいます」
そう言ったフラウリアのその目は真っ直ぐ、こちらを見据えていた。
……こう面と向かって言われて、それが誰を意味するのか分からないほど、私も鈍感ではない。
「そうか」
それでも私は気づかない振りをして返事をした。しかし、視線から逃げるようについ顔を逸らしてしまう。
「そうです」
変に気持ちが落ち着かない中、視界の隅でフラウリアが笑うのが見えた。