大陸暦1975年――02 受け入れられないこと
自室で本を読んでいたフラウリアはため息をついて、顔を上げた。
座っている机の前から何気なしに室内に視線を向ける。そこには、いつもと言えるぐらいに側にいるアルバの姿は無い。今日、彼女は知らない見習いと一緒に出かけている。
アルバが見習いの女の子に人気があると知ったのはつい最近のことだった。
修道院内を歩いていても、彼女は何かと声をかけられる。今さらそれに気づいたのは、自分がここに来た頃にはそんなことがなかったからだ。どうやら見習いの子たちは病み上がりである自分に遠慮して、世話役であるアルバに声をかけるのを控えていたらしい。
それは気を使わせてしまって申し訳なかったなとフラウリアは思った。
だから先ほど、自由時間を共に過ごしたいと誘いにきた見習い三人に断りを入れていたアルバに、行ってあげるようにと勧めた。
自分を一人にするのが心配だったのだろう、最初はためらっていた彼女も、最後には押し切られる形で見習い達と出かけていった。
そうして今日は一人で本を読んでいたのだが、どうにも内容が頭に入ってこない。
それが他のことに気が取られている所為だということは、自分でも分かっている。
だから本を閉じて椅子から立ち上がった。そして外の空気を吸おうと自室を出る。
外に出るとすぐに楽しげな声が聞こえてきた。
その声に誘われるように二階の柵から下を覗く。見えた中庭には数人の見習いが集まっている。その中にはロネの姿もあり、彼女は他の見習いと軽く追いかけっこをしていた。その相手が下の子ではなく上の子なのを見るに、どうやら遊んでもらっているらしい。
フラウリアはその様子を二階の柵に腕を乗せて眺めた。温かい光景に自然と微笑みが浮かぶ。それでも頭の中には、目の前の光景とは全く違うことが浮かんでいた。
「考えごとですか?」
そうしていると、ふいに声をかけられた。
声が聞こえた左へと顔を向ければ、院長のユイがこちらに歩いてきている。
「ユイ先生」
ユイは隣に並ぶと、こちらに顔を向けた。
優しく微笑むその表情は『悩みごとがあるのなら聞きますよ』と言ってくれているように見える。
フラウリアは周囲を窺った。二階には今、自分とユイ、二人の姿しか見えない。それでも念のために声はひそめる。
「ユイ先生は、その、ベリト様が特例としてなさっている……」
その言葉を口にすることをためらっていると。
「解剖ですか?」
とユイがはっきりとそれを発音した。
フラウリアは思わずまた周囲を窺ってしまう。そんな自分を見てユイは小さく笑いを漏らした。
「口に出すことは違法ではありませんよ」
「そう、ですね」
歯切れの悪い返事をしながら中庭へと視線を移す。視界には走り回るロネの姿が映る。その元気な姿を見ながら悩みを打ち明けるかどうか迷っていると、やがてユイが「フラウリア」と名を呼んできた。フラウリアは横を見上げる。
「休憩に付き合ってくれませんか」
ユイはそう言って淡く微笑んだ。
「どうぞ」
目の前の応接机に、紅茶で満たされたティーカップが置かれた。それを見て、ソファに座っていたフラウリアは思わず側に立つユイを見上げる。
修道院では紅茶を飲めることは滅多にない。それが許されるのは月に一度のお茶会の時ぐらいだ。その時だけは見習い全員、紅茶と、そしてお菓子を頂くことができる。
だから自分だけこれを頂くのは、他の見習いに悪い気がした。とはいってもベリトの家でも頂いているので、今さらといえば今さらなのだが。
「内緒ですよ」
向かいのソファに座りながらユイはそう言うと、自らのティーカップを持って一口飲んだ。
出されて手をつけないのも失礼かもしれないと思い、後ろめたく感じながらも「頂きます」とそれを口にする。紅茶はアールグレイだった。これは修道院のお茶会では出たことがないが、ベリトの所では飲んだことがあるので知っている。
「貴女は解剖に良い印象を抱いていないのですね」
ユイの言葉にフラウリアは内心、苦笑した。
先生は何でもお見通しだな――と。
それは自分が態度に出やすいのもあるのだろうが、それがなくとも不思議とユイには何でも見通されているような気がしていた。いや、見通されているというよりは、自分のことをよく知っているような感覚を覚える。
もしかしたら先生とは以前にも会ったことがあるのかもしれない――そうフラウリアは思ったが、それをユイに確かめるつもりはなかった。それはもう失った過去であり、ベリトのために後ろには振り返らないと決めたから。
「必要性は理解しているつもりです」フラウリアは言った。「ですがやはり、犯罪者でも可哀想だと思う気持ちが強くて……」
「それは星還を遅らせる行為がですか? それともそのこと自体がですか?」
問われてフラウリアは口ごもった。返答に迷ったわけではない。それを修道院長の前で言うことが憚られたからだ。
だが、それでもユイには嘘をつきたくないと思い、意を決してそれを口にする。
「そのこと自体がです」
それは星教の教義よりも、自分の気持ちを優先することを意味していた。間違っても修道女になろうとする人間が口にするべき言葉ではない。
「そのようなこと、思ってはいけないと分かってはいるのですが……」
「そんなことはありません」
ユイは、はっきりとした口調でそう言った。フラウリアは驚いて伏せていた目を上げる。
「フラウリア。教えというものは人の考えを、道を定めるものではありません。悩み迷ったその時に、人の道しるべとなるべきものです」
「みち、しるべ」
「そうです。それは一般信徒だけでなく、私達にも言えることです。星教内部の人間だからといってその教えを固持することも、遵守する必要もありません」
星教の教えは絶対ではない――それを青の聖女とまで呼ばれる修道女が口にしたことに、フラウリアは衝撃を受けた。
そんなフラウリアの様子に、ユイは小さく苦笑を浮かべる。
「もちろんこれは星教の公式な思想ではありません。あくまで私個人の考えです。それこそ私の立場からしたらこのようなこと、思うべきではないのですが」
それでも、とユイは真剣な眼差しを向けてきた。
「私は思うのです。星教に恩を感じているからといって、修道女になるからといって、教えを全てとして生きてほしくはないと。それはこのことに限ったことではありません。全てに言えることです。一つの考えに捕われてしまっては、視野を狭めることになる。そうなれば人は周りが見えなくなり、やがて考えることを放棄し、選択することすらもしなくなります。私は貴女たちにそのような人間になってほしくはない」
そこまで言ってユイは眼差しを緩めると「まぁ、貴女はその心配はなさそうですが」と最後に付け加えて淡く微笑んだ。
教義に従順ではないことを暗に言われ、フラウリアは思わず苦笑を浮かべる。
きっと今回のことだけではない。ユイは気づいている。自分が星教の教義を全て受け入れられていないことを。
星還葬に関してもそうだ。
星還が――火葬が遅れたからといって、魂が穢れるとはフラウリアは思っていない。もしそうだとしたら、壁区で亡くなった人間の殆どが、魂が穢れていることになる。
星還葬をするお金がない人が多い壁区では、募金により合同星還葬が行なわれるのが普通だった。それはある程度、遺体が溜まらないと行なわれず――何人でも費用がそう変わらないため――だから長いときには何週間も待たされることもある。フラウリアの両親もそうだった。
それを待つまでの間、遺体は魔法で冷凍保存されてはいるが、それでも星還が遅れていることには変わりない。星教の教え通りならば、魂が穢れ、消滅していることになる。
その教えを知った時、そんなの悲しすぎる、とフラウリアは思った。
壁区に生まれたことで、死後も魂が苦しめられるなんて。
現世で辛い思いをしてきたのに、来世にも希望を持てないだなんて。
だからといって星教を非難する気持ちは全くなかった。
星教は星教なりに貧しい人たちを助けようと壁区で活動してくれている。それは孤児であったフラウリアもよく知っているし、現状も含めて何度も助けられている。だから星教には心から感謝している。
それでも壁区の人に救いがないそんな教えを、壁区生まれのフラウリアが素直に受け入れられるわけがなかった。
とはいえ星教に拾われたからには、修道女になるからには、自分の気持ちは殺すべきだと思っていた。星教の教義に疑問を抱くことなく、従うべきなのだと。
だからこそユイの言葉にフラウリアは衝撃を受けた。
そして、救われた気がした。
修道女になっても自分の考えを持ち続けていいのだと――。
「それで貴女は、それを行なうベリトに複雑な思いを抱いたのですね」
そこまで読まれたことに驚きながらも、フラウリアは頷く。
人間、死んだらそれまでだというのは分かっている。
体が綺麗なままだとしても、切り刻まれたとしても、最後には燃やされてしまい全ては灰になってしまうことも。
それでも、体を切り刻まれる死者のことをかわいそうだと感じてしまう。
それを行なうのがベリトだということが、更にその気持ちを複雑にさせる。
彼女にはそんなことをしてほしくはないと思ってしまう。
それが嫌だった。
ベリトに勝手な思いを抱いてしまう自分が、彼女のすることが受け入れられない自分が、何だか嫌だった。
「フラウリア。貴女はモネの実をご存じですか?」
唐突な話題転換に、フラウリアは俯いてしまっていた顔を上げた。
瞬きをしてユイを見る。彼女はいつも通りの淡い微笑みを浮かべている。その顔からして、どうやら自分に気をつかって話を逸らしたわけでも、冗談を言っているわけでもないらしい。
「ええと、モネの実って、確か辛い実ですよね……?」
モネの実は壁区にも自生したものがあったので存在は知っている。だが、辛いばかりで喉が渇くだけと孤児の間では有名だったので食べたことはなかった。
「はい」ユイが頷く。「食材の中では一・二を争う辛さと言われている実です。それをパンに塗って食べることをどう思われますか?」
「塗って、ということはジャムみたいにしてですか?」
「そうです」
「でしたら私はあまり……」
あまり辛いものを食べたことがないので、それが苦手かどうかは自分でもわからないが、それでもパンに塗るのはバターか甘いジャムしか想像がつかなかった。とはいっても、それもここ数ヶ月で馴染んだ感覚ではあるのだが。昔はパンに何かを塗ることすらも贅沢だと感じていた。
「同感です。でもルナは好きなんです」
「ルナ様が?」
「そう。昔から好んで食べるのです。彼女とは十年以上の付き合いになりますが、あれは今でも受け入れられません」
フラウリアは、はっ、としてユイを見る。彼女の言わんとしたことが理解できたからだ。
「フラウリア。どんなに長い付き合いでも、受け入れられないことはあるものです。そのことで貴女はベリトが嫌いになりましたか?」
「いいえ……!」
思わず食いつくようにフラウリアは否定した。
「そんなことは」
あるはずがない。ベリトを嫌いになるなんて絶対にない。
「それならばいいではないですか。たとえそれが受け入れられなくとも、そのことを根底から否定さえしなければ関係が壊れることはありません。それでも理解したいと思う気持ちがあるのならば、ゆっくりと知っていけばいいのです。そうしているうちに受け入れられることもありますよ」
――そうか。
これは以前と同じだ。ベリトに拒絶されたあの時と。
あの時と同じく自分はまだ何も知らない。
彼女が解剖に行き着いた経緯も、彼女が解剖に抱いている思いも。
それで受け入れられないと諦めるのには、まだ早すぎる――。
そこまで考えて、フラウリアは苦笑を浮かべた。
またしても同じ轍を踏むところだった自分に呆れるように。
「ユイ先生は、知ろうとなさったのですか?」
もう心の迷いは晴れていた。
それでもフラウリアは話の流れでそう訊いてみた。以前も口にした問いを。
ユイもそれを覚えていたのだろう。小さく笑みを漏らすと答えた。
「しましたよ。あまりにもルナが勧めて煩いものですから食べてみました。そして、その日は味覚が駄目になりました。その時は流石に彼女に殺意が湧いたものです」
真面目に、だが冗談を含む声音でユイは言った。
それにはフラウリアも思わず笑いを漏らしていた。




