大陸暦1975年――02 解剖学者
「解剖、学者」
言い慣れなさそうにそう言ったフラウリアに、イルセルナは「えぇ」と答えると紅茶を一口飲んだ。
あれからどうにかフラウリアを落ち着かせ、私達は仕事部屋のソファに座っていた。
フラウリアによって軽く片付けられた応接机には、三人分のティーカップが並んでいる。セルナに言われて私が自宅から持ってきたものだ。使用人が外出しているので文字通り、本当に私が用意する羽目になった。遠慮がないというか、自然と人を使うところは少し特権階級らしさを感じる。
「それはつまりベリト様は、国から許可を得られているということですか?」
隣に座っているフラウリアが、向かいに座っているセルナに訊く。その視線はセルナと応接机に置かれている先ほどの書類を行き来している。
この書類には解剖対象の性別、年齢、それを行なった日時や手順、そして人体の図が部位ごとに事細かに記されている。そこには執刀者の名前は記していないが、私の筆跡を知っているものならば軽く読んだだけで気づいてしまうだろう。
これが何かの転写ではなく、私自身が人間を解剖し、それを記したものだと。
「そういうこと」セルナが頷く。「星教の関係者ではない人間に許可を下ろさせるの大変だったんだから」
以前、フラウリアからも話題に出してきたことがあるので本人も知っていると思うが、人体解剖はどの国の法律でも禁止されている。それは世界中で信仰される星教の影響力によるものが大きい。
星教では人は死んでもまた生まれ変わるという輪廻転生の死生観がある。
そして死した肉体に長く魂を留めておくと、魂も死に穢され最後には消滅すると説いている。
そのことから人は死んだら早く火魔法で火葬――星還葬をしなければならず、それを遅らせる行為は解剖のみならず禁止されているのだ。
それでも一つだけ例外もある。
不審死の場合だ。その場合は捜査するにあたって死因を明らかにする必要があるため、国が星教に要請し星教会の指定場所で検死解剖を執り行うことが可能になっている。ただし、執刀する人間は星教の死検士のみだ。例外はない。
それを上手いことやって私に認めさせたのがセルナだ。
でも、とフラウリアが遠慮がちに口を開く。
「どうして、その、解剖を……」
だが、そこまで口にして何かを思いついたように、はっ、とするとこちらを見た。
「もしかして、想像のためですか」
その考えにすぐ至れたことに、不思議と喜びのようなものを感じた。優秀な生徒を持った先生の気持ち、みたいなものなのだろうか。
「魔法をもっとも効果的に発現させるには、想像力を鍛える必要がある。治療魔法の場合は人体構造を理解すること――」
以前、自分が教えたことをなぞるようにフラウリアが呟く。
「そうだ」私は頷く。
「ですが、この考えはまだ広く浸透していないのですよね。それなのに許可が下りるものなのですか」
当然の疑問だった。
そう、フラウリアの言う通り、治療魔法を効果的に発現させるためには想像力が必要という考えは、治療学ではまだ一般的ではない。熟練の治療士ならば経験を積むことにより自然とそこへ行き着くだろうが、魔法学院では想像力を必須なものとして教えてはいない。
そのことに重点を置いて教本に取り入れているのは、この国では今のところ私だけだ。フラウリアがそれを知っていたのはおそらく他の魔法学の教本を読んだからだろう。
「フラウリア」カップを受け皿に置いてセルナが言った。「今、魔法の素養を持つもの、特に神星属性の素養を持つものが減ってきているのは知ってる?」
「はい」フラウリアが頷く。
「これまでこの国の医療の中心はその神星魔道士が担っていた。それは魔法大国と呼ばれるこの国が昔から他国よりも多くの神星魔道士を抱えていたことと、水魔法の治療魔法よりも神星魔法の治療魔法のほうが格段に効果が高いから。それも流石に知ってるわよね」
フラウリアが頷く。
「だけど今は神星属性の素養を持つものが減ってきている。それは四行属性である水属性も同じだけれど、もともと四行属性に比べて素養者が少なかった神星属性のほうが減少が著しい。現にもうその影響は星都にも現れ始めている」
その影響が何なのか壁区生まれのフラウリアも、壁近に住んでいた私もよく知っている。だからこそフラウリアは少しばかり苦い顔をした。それに気付きセルナは責任を感じるように軽く苦笑したが、すぐに表情を戻して話を続ける。
「このまま減少が止まらなければ遠くない未来、神星魔道士は四行魔道士よりもかなり先に絶えてしまう。そうなってしまえば医療現場は必然的に水魔道士に頼らざる得なくなる。けれど水魔法では重傷者を治療するのは難しい。これまでよりは確実に救えない命が増えてしまう。だけど魔道士本人の人体知識を増やせば、水魔法の精度は向上し、神星魔法までとはいかなくとも限りなく近い治療をすることができる」
セルナがこちらを見る。
「それを証明したのがベリトなの」
そう、そのために何度も軍治療院に出向かされ、したくもない治療をさせられたのだ。国家治療士のお偉いがたや、国の役人という観客付きで。
その結果、私が壁近に住んでいた時に無許可で行なっていた解剖は不問となったわけだが、それでも今考えてみても大した賭けだったと思う。証明できなければ最悪、首が飛んでいたのだから。……まぁ、セルナは絶対にそんなことはさせないと豪語していたが。
「それで」
納得するようにフラウリアが呟く。
「うん」セルナが頷く。「でもねぇ、証明したのはいいけれど、そのために必要な解剖を魔法学に取り入れることには難色を示されちゃってね」
それも当然ではある。
この国は星教が国教なのもあって、人々にその死生観が強く根付いてしまっている。たとえ信仰心が薄れてきているとしても、千年以上も続いてきた思想がそう簡単に変えられるものではない。
「それでも何れは、魔法学院や修道院でも解剖を学問として教えられるようにしたいとは思っててね。その時のためにベリトには解剖記録をまとめてもらってるんだけど」
セルナが応接机の上の書類を見てため息をつく。
「ベリト、絵が下手なのよねぇ」
憐れむような諦めるような顔を向けてくる。
……腹立つが、自覚している以上、言い返すこともできない。
「だからといって画家も呼べないし」
解剖に部外者を立ち会わせることは法で禁じられている。
それでも絶対に駄目というわけではない。面倒な手続きさえ踏めば、許可が下りる場合もある。それよりも難しいのは星教の死生観が染みついていない、更には解剖現場に耐えられる画家を探し出すことだ。一時セルナも探そうとはしていたが、ことごとく断られたらしく今ではもう諦めてしまっている。
唯一、問題なく解剖に立ち会えるのは星教の死検士なのだが、それでは何の解決にもならない。絵が描けるのがいないからという意味ではない。死検士は解剖の記録を取ること自体が禁止されているのだ。技術に関しては口伝と実践で教えているらしい。
だから以前、フラウリアに教本の解剖図は何を参考にして書いているのかと問われたとき、そういう記録を参考にしていると答えたが、あれは全くの嘘だった。
はあ、とセルナはまた感に障る大きなため息をつくと、フラウリアを見た。
「とまあ、長々と話しちゃったけれど、要するにベリトはこの国、ううんもしかしたら世界初かもしれないわね、国公認の解剖学者ってわけ。あ、安心して。解剖対象は大罪人だけにしてるから」
「それは関係ない」
すかさず口を出すと、すぐにセルナは恥じるように苦笑いを浮かべた。
「あぁ、そうね。私達のものさしで測ってはいけないわよね。ごめんなさい」
フラウリアが首を振る。
「いえ。……でも、そうですね。解剖の重要性は理解できましたが、それでも私はどんな人でも死してもなお、切り刻まれるのは可哀想だと思ってしまいます。……すみません」
……まぁ、そうだろうなと思った。
フラウリアがそう考えることは、はなから分かりきっていたことだ。
たとえ相手が犯罪者であろうとも、死人であろうとも、善良な人間や生者と変わらず憐れんでしまうのがこいつだ。胸を痛めずにはいられないのがこいつなのだ。
それが分かっていたからこそ、このことを話すつもりはなかった。こいつが来るときには解剖に関係するものを隠すまではしなくとも、容易く目に付かないようには気をつけていた。
だというのに今日の私はどこか気が緩んでいた。……いや、緩んでいたのとは違う。よく分からない感情に気を取られていた所為だ。それがなければ間違ってもフラウリア一人でここを掃除をさせようとは思わなかった。
「貴女が謝る必要はないわ。とりあえずベリトが犯罪者でないことだけは安心してね」
「――はい」
セルナの言葉にフラウリアは微笑んで頷いた。
しかし、微笑んでいるその顔にはわずかに、陰りのようなものが滲んでいた。