大陸暦1975年――02 我慢の限界
窓から入り込むそよ風が、肌に触れた。
快晴でも冷たく感じるその風が、夏期が完全に終わったことを告げている。
冬期に足を踏み入れたこともあり、日中でも大分、温度が低くなってきた。
それでも寒いというほどではない。むしろ過ごしやすいぐらいだ。雪ばかり降っていた生まれ故郷に比べれば、ここは冬期真っ只中でもあまり雪は降らないし、温かくも感じる。それでもこの国の人間は普通に寒がっていることから、どうやら雪国生まれの私には寒さに耐性というものがあるらしい。
だからといって冬期が好きというわけでもない。どちらかというと嫌いだ。雪が降った日には外すら見たくなくなる。雪はどうしても故郷を思い起こさせる。そして、ここに捨てられた時のことも。あの日も丁度、雪が降っていた。
私は視線だけを右に動かす。そこにある執務机にはフラウリアが座っている。黙々と教本を読み進めており、見る限りでは寒そうにしている様子はない。
それなら窓を閉める必要はないか、と視線を前に戻す。
まぁ、こいつも寒さには強いのかもしれない。過酷な状況下で何年も冬期を越してきたのだから。それに本当に寒ければ『窓を閉めていいですか』ぐらいは言ってくるだろう。遠慮はするが、そこまで自分の意見を主張できない奴ではない。
手に持っている羽ペンに赤いインクをつけ直して、作業机に置いている課題の採点に戻る。
カリカリ、というペンを走らせる音が静かな室内に響く。
フラウリアが勉強をし、私が仕事をする。
今やこの状況にも慣れたものだ。
最初の頃、あれだけ気持ちが落ち着かなかったというのに、今ではもうこれが当り前のようになっている。
フラウリアがいるのに心は、静穏を保っている。
そのことを私は不思議に感じていた。
以前はこうではなかった。
記憶を引き受けた人間が近くにいると、引き受けた記憶が呼び起こされ、そこから生まれた感情に襲われることがあった。
それだけでなく当人がいなくとも、その人間を取り巻く人々が――環境でさえも、引き受けた記憶は刺激され、それを呼び起こそうとした。
だから壁近を離れたのだ。イルセルナが私を勧誘に――あれは半分脅しとも言えるが――来たことを切っ掛けとして。
それなのに今はそうではない。
フラウリアが側にいても、あいつの記憶に襲われたことは一度もない。
先日のことも含め二度ほど記憶を呼び起こされはしたが、それはあいつが過去を振り返ったからだ。そこにいたことが原因ではない。
そのことは本人も気づいているのか、あれ以来、己の失った記憶について聞いてはこない。
後ろを振り返らず、今だけを見ている。
一生懸命に勉強をしているのもそのためだろう。
人を助けるために、一人前の治療士になるために。
横目でフラウリアを覗う。彼女は先ほどと変わらず真剣な表情で教本に向き合っている。
こいつがこういう顔になるのは勉強の時ぐらいだ。
いつもは基本的に、にこにこ、としている。何が楽しいのか、いつも笑顔でいる。
だが、笑っているといっても、それにも種類がある。
夜市の時に友人と対した時や、ユイやセルナの前ではここまで顔は緩んでいなかった。
何というか、私の前では特に締まりがない気がする。
……私の前では?
何気なく思って、急にむず痒い気持ちになった。
そのことが採点をしていた手を止めてしまう。それでも気にせず手を動かそうとするが、そう思えば思うほど意識がそちらへと向いてしまう。それが増していくような気がする。
何なんだ一体――。
不可解な感覚に自分に苛立ちを感じそうになった、その時。
「ベリト様」
ふいに横から声がかけられた。
それに驚いて、思わず勢いよく振り向く。
目の前にはいつの間にやってきたのかフラウリアが立っていた。微笑みを浮かべたまま、きょとん、とした顔をしている。私がらしくない動きをしてしまったからだろう。
「なんだ」
私は動揺する気持ちを押さえながら、努めて平常な声を出した。……いや、なんで意識しないとその声が出ないんだ。そもそも何に動揺してる。意味が分からない。
「ここに書いてある参考書物があればお借りしたいのですが」
これです、と開いた教本を見せてくる。
「あぁ、確かその辺に置いていたはずだ」
部屋の隅の棚に高く積み上げられた本を指さす。
「ありがとうございます。お借りします」
フラウリアは微笑んで礼を言うと、棚の方へと向かった。
私は、ほっ、と胸をなで下ろす。いや、だからなんで、というか何に安心してるんだ私は。本当に、意味が分からない。
自分自身に不信感を覚えながら執務机に向き直る。
直後、背後から「きゃっ」と小さな声が上がった。続いて、どさどさ、という何かが崩れ落ちる音がする。
振り返ってみると、積み上げられていた本が崩れていた。その本に溜まっていたのか、辺りには埃が舞い上がっている。
「フラウリア」
私は舞う埃を手で払いながらフラウリアに近寄る。
こうなることは予測できたというのに、どうやら自分のことに気が取られてしまっていたらしい。
「大丈夫か」
取ってやればよかったと後悔しながら顔を覗きこむ。
フラウリアのことだ。少し苦笑を浮かべながら『大丈夫です』とでも返してくるだろうと思っていた私は、その顔を見て意表を突かれた。
フラウリアは下を向いて、口を尖らせながら顔をしかめていたのだ。
それは初めて見る顔だった。
怒り顔とも違う。拗ねてる、とも多分違う。どういう心境の表われなのか読み取れない。
「……お掃除がしたいです」
その顔のまま、これまた聞いたことのない声音でそう言った。
こいつにしては低い、少し不満が感じられる口調だ。
「掃除……?」
私は内心、少し戸惑いながらもその言葉を繰り返す。
「掃除です」
「いや……別にしなくてもいい」
そう返すと、フラウリアは顔を上げた。
濃い緑色の目が真っ直ぐ私を捉える。
「したいです」