大陸暦1975年――01 人嫌いの治療士5
入浴を済まし部屋に入ると、アルバさんはまだ戻っていなかった。
着替えや小物を片付け、自分のベッドに腰掛ける。何だか気持ちが落ち着かないのはおそらく、普段ならアルバさんが先に戻っているからだろう。
アルバさんと一緒でないのは、使用している浴場が違うからだ。
彼女は他の見習い修道女達と一緒に大浴場に、私はここに来てからずっと個人浴場を使わせて頂いている。
それは最初の頃、身体の自由が利かなかった自分の入浴には介助が必要という理由だった。でも身体が問題なく動かせるようになってからも、ユイ先生は続けて使用してもいいと言ってくださった。その理由をユイ先生は口にしなかったけれど、言わずとも私の身体にある傷跡に配慮してくださったのだということは分かった。人には見られたくはないだろうと、そう考えてくださったのだと。
ユイ先生の心遣いは嬉しくも複雑な気持ちだった。
実のところ私は傷跡に関して、何も感じてはいなかった。
傷跡というものは負った経緯を覚えていてこそ、そこに感情が生まれるものだ。
例えば、誰かを守った傷跡なら、達成感と誇りから武勇伝と共に人に見せたくなるかもしれない。不注意で負った傷跡なら、自分の失態が恥ずかしくて人に見せたくないかもしれない。人の悪意による傷跡なら、心の痛みからその出来事を知られたくなくて隠すかもしれない。
そうした経緯から、傷跡に対する感情も行動も生まれてくる。
でも私にはその経緯の記憶がない。傷を負った事故の記憶そのものがない。
だから事故同様、身体に刻まれた傷跡にも実感がなく、そこに何の感情も生まれてこない。人に見られたくないという気持ちも、恥ずかしいという気持ちも、全く湧いてこない。
それよりも私は、特別扱いを受けることに負い目を感じていた。
動けない間は仕方がなかったのだと思うことができるけれど、動けるようになってからもそれを手放しに受け取るのは流石に気が引けてしまう。
だから最初は断った。これ以上ご厚意に甘えるわけにはいかないと。お気持ちだけ頂きますと伝えて。するとユイ先生は優しく微笑んで『これは貴女だけのためではありません』と言った。
その言葉に私は、はっ、とすると、アルバさんの顔を思い浮かべた。
彼女は初めて出会ったときからずっと、私の前では笑顔を絶やさなかった。私が不安で泣いていた時も、取り乱した時も、大丈夫だ心配いらないと言って笑顔で受け止めてくれていた。でも清拭や入浴を手伝ってくれていた時だけは、その笑顔にわずかに影が落ちていたことを、その時に思い出し初めて気がついた。
心優しい人は、私の傷跡を見て心を痛めてしまう。
ユイ先生の配慮はそれを含めた上でのことだったのだ。
私は自分のことしか考えていなかったことを恥じ、粛々と心遣いを受け取ることにした。
自分の所為で人が心を痛めるのは、私も望まないから――。
寝巻の袖をめくる。腕には大小様々な傷跡が走っている。
この傷跡は治療を続ければいずれ消すことはできる。そういう傷跡専用の神星魔法があるらしい。でもそれには時間が必要で、私の場合は傷が全身に渡っているので数年はかかるとのことだった。
傷跡の治療は私が快復してからとのことだったので、まだ始まってはいない。本当はこれもお断りするつもりだったけど、先ほどの理由からやはり消したほうがいいのだろうと思い、治療を受けさせていただくことにした。
私は袖を戻し息をつく。アルバさんはまだ戻ってこない。
夜は基本的にアルバさんと雑談をすることが多い。だから落ち着かないに加え、だんだんと手持ち無沙汰にもなってくる。
私はぼんやりと部屋を眺める。見習い修道女の部屋は、全てが二人部屋だ。
細長い間取りの室内には、机や椅子、棚やクローゼット、そして一番奥にベッドが左右対照に配置されている。家具に挟まれた通路は人が二人やっと通れるほどで、アルバさんは『ちょっと狭いよな』と言っていたけれど、私にはこれぐらいの手狭さが心地良い。それはきっと狭い方が人との距離が近くて安心感を覚えるからだろうと思う。昔よく狭い路地に孤児達が集まって寄り添っていた時のように。
因みに私が来るまでは、アルバさんはこの部屋を一人で使っていたらしい。
何でもここにいる見習いの人数が奇数で――私が来て偶数となった――その所為で余ったのだとか。
その話を聞いたとき『悠々自適な一人部屋を邪魔してしまいすみません』と言ったら、アルバさんは『丁度、人恋しかったところなんだ』と笑って返してくれた。
そんな冗談で返してくれる彼女のことだから、余ったというのもおそらく冗談なのだろう。
本当は一人の時間が好きで、一人部屋も彼女が望んだことなのかもしれない。
そうするとやはり邪魔をしてしまったなと申し訳ない気持ちになるけれど、そんなことを気にしていたら逆にアルバさんに怒られそうでもある。変なこと気にするなよと、優しい彼女のことだからきっとそう言うだろう。彼女との付き合いはまだ半月程度だけれど、これぐらいのことは分かる。だからこのことはもう考えないようにしようと思った。
そう決めて視線を泳がすと、ベッド脇の小机に積み重なっている本が視界に入った。この本は私がここに来てからずっと置かれている。アルバさんが修道院の図書館から借りてきたものだと言っていた。
私はベットから立ち上がり、重ねられた一番上の本を手に取る。
表紙には〈空の種類〉と書かれている。下に積み重なった本も題名からして、空に関するものばかりのようだ。
空が好きなのだろうか――そう思ったところで、ガチャ、と扉が開く音がした。
振り返るとアルバさんだった。
「おかえりなさい」
彼女は「ただいま」と答えると荷物を収めてベットに腰を下ろした。その顔はほんのりと赤く、何だか疲れているようにも見える。
「お顔が赤いですが、体調が悪いのですか?」
「いやいや。少しのぼせただけだよ。入れ替わりで来たロネに付き合わされたせいでな」
ああそれで、と笑って納得する。
「好かれていますね」
「ありがたいことにね」
アルバさんは力なく笑うと、私の顔から視線を下ろし手元の本を見た。
「本を読む元気も出てきた?」
これまで私は、本を借りてこようかとアルバさんが言ってくださっても断ってきた。それは自分の気持ちの整理に精一杯で、本を読む心の余裕がなかったのが理由だ。だからか目と鼻の先に摘まれていたこれらの本にも全く興味を示さなかった。
それを今になって、手持ち無沙汰とはいえ何気なしに手に取ったのは、アルバさんの言う通り元気が出た――心に余裕が出てきた表われなのかもしれない。
「そのようです」
「それなら明日にでも図書館に行こうか。私の趣味よりも自分の好きなの借りた方がいいでしょ」
私は「はい」と答えてから続けて訊いた。
「アルバさん。空、お好きなんですか?」
「普通かな」
想像と違った返答に、私は思わず積み重なった本を見てしまう。
趣味で借りているけれど、取り分け好きでもない。それでも何冊も借りるということは勉強目的なのだろうか。そんなことを考えているとアルバさんが「勉強じゃないよ」と小さく笑った。……やはり私は思ったことが顔に出やすいらしい。
「興味の度合いが普通でも、知りたくなることはあるんだ」
「そうなのです、か?」
理解が及ばず首を傾げた私を見て、アルバさんは楽しそうに笑う。
「そうなのです。フラウリアもそのうち分かるときが来るさ」
彼女は意味深にそう締めると、積み重なった本を一冊、手に取った。そしてぱらぱらとめくりだす。私も自分のベッドに座り、手に持っていた本を開いた。〈空の種類〉という題名の本は目次を見る限り、朝焼けや夕焼けなど、空の状態によって名付けられた名称と現象を解説している本のようだった。
普通に面白そうかも、と思って読み進めていると、しばらくしてアルバさんが思い出したように「そういえばさ」と口にした。
「今さらだけどフラウリアって字、読めるよな」
疑問のような確認のような感じでアルバさんがそう言ったのは、私が孤児だと知っているからだろう。
孤児は普通の子供が必ず通う幼年学校にはもちろん通えず、文字が読めない子は珍しくない。修道院に入る子も大半が孤児なのでまずは読み書きを教えると、修道院に入る前に修道士様が話していた。
「はい。もちろん意味の分からない単語も多いとは思いますが」
「それは流石に、修道院に入る前に教わったんだよな」
「そうです。文字が読める人がいて、その人が教えてくださいました」
孤児達の中には自立したあとも様子を見に来てくれる人もいる。
私に文字を教えてくれた人もそうだった。その人達は大人に差し掛かるぐらいの年齢の姉弟で、孤児のすみかに顔を出してくれる時は必ず衣食を持参して孤児達に分け与え、希望する子には文字も教えていた。
姉弟は仲が良く優しい人達だった。孤児達からも信頼できる大人として見られていた。でも私が九歳になったころにぱったりと顔を出さなくなった。二人を慕っていた孤児達はそのことを悲しんだ。中には見棄てられたんだと、裏切られたんだと憤る子もいたけれど、私はそうは思えなかった。だって二人の身体には生傷が絶えなかったから。いつもどこかしら怪我をしていたから。だから私は直感的に悟っていた。二人は何か危険な仕事をしていて、そして何かあったのだろうと……。
「孤児がそういう人に廻り会うことはなかなかにありません。だから私は運が良かったのだと思います」
私は開いている本に視線を落とす。
もし私の直感が正しければ、それは本当に悲しいことだと思う。でも、だからこそ私はその出会いに感謝している。記憶を失った私が今、文字をこうして読めているのは、孤児時代に二人が教えてくださったお陰なのだから。
「フラウリアって凄いよな」
そのことを改めて噛みしめてると、アルバさんが感心するように言った。
「そうですか」
「うん。普通はさ、辛い境遇にあるほど、幸せの数より不幸の数を数えたくなるもんだ。でもお前は不幸より幸せを、失ったものよりも得たものを大事にしようとしてる。それってなかなか出来ることじゃない。だから凄いよ」
真正面から褒められて、耳が熱くなる。
「貴女は本当に、人をおだてるのがお上手ですね」
照れ隠しにそう返すと、アルバさんは笑って言った。
「リリーにはよく、女たらしだって言われる」
それには私も同意せざる得なかった。
消灯時間になり、私達はそれぞれのベッドへと上がった。
「明り消すよ」
私が「はい」と頷くと、アルバさんが上に手を掲げる。するとすぐに天井の魔灯から明りが、ふっ、と消えた。
この魔灯の仕組みについてはまだ詳しくは知らないけれど、点灯消灯させるには魔法の源である魔粒子の流れを変えるらしい。これはコツが掴めれば魔法の素養がなくても誰でも使用が可能で、だからこそ魔灯は一般にも流通しているのだとアルバさんが言っていた。
魔灯の暖色の明りが消えたことにより、部屋の色が青白く移り変わる。
私達のベッドの間にある窓から差し込む月明かりの色だ。
もぞもぞとシーツが擦れる音がしたあと、アルバさんが言った。
「今日は疲れたでしょ」
その声は少し下から聞こえた。私はまだ上体を起こしているけれど、彼女はもうベッドに横たわったのだろう。曖昧なのは月明かりが私達のベッドの間だけを走っていて、お互いの姿が見えないからだ。もう少し暗闇に目が慣れれば輪郭ぐらいは見えるようになると思うけれど。
「そうですね。でも楽しかったです」
落ち込んだりもしたけれど、今日はそれ以上に得たものがあったように思える。
三人とこの部屋以外で過ごせたことや、アルバさんのお陰で再び学ぶことに対して前向きになれたこと、そして――。
「そうか。てか本当にクロ先生、怖くなかったの?」
私は今まさに思い浮かべそうになっていた人物の話題に胸が、どきり、と跳ねた。
「あ、はい。怖くなかったですよ」
「ふぅん。ロネの言う通り、意外と肝が据わってるんだな。いや、あいつの言う通りだと内臓か?」
私は昼間のことを思い出し小さく笑う。
「そういえば、リベジウム先生は開業されてないのですね」
「ああ。治療士は否が応でも人と接する仕事だから向かないんだろ。ここの仕事も人の紹介だし」
「そうなのですか」
「そうらしい。よくここにも顔を出す人なんだけど、そういや最近は見てないな。まあフラウリアもそのうち会えるよ。クロ先生で動じなかったお前も、流石にその人には驚くかもな」
私が驚くような人。どんな人なのだろうか。
「ま、その時のお楽しみ。そろそろ寝るか。話に付き合わせて悪かったな」
「いえ。楽しかったです。おやすみなさい。アルバさん」
「おやすみ。フラウリア」
就寝の挨拶を最後に部屋は沈黙に包まれた。
私もなるべく音を立てないようにベッドに横になる。するとすぐに意識がベッドに沈んでいく感覚に襲われた。
どうやら思った以上に身体が疲れを感じているらしい。昨日まではあまり動いていないせいか寝付けない夜も多かったので、こういう感覚は本当に久しぶりだ。
やはり人は身体を動かさないと駄目ですね――そんなことを思いながら瞼を閉じる。
徐々に意識が眠りへと落ちていく中で、ふと声が聞こえた。
――その辺に置いとけ
それは私が初めて聞いた、リベジウム先生の声だった。
客観的に聞けば、人を突き放すような低く冷えた声音。
でも私は彼女のことを怖いとも、冷たそうとも思わなかった。
それどころかあの時の私は、彼女の声にどこか、懐かしさを感じていた。
初めて会ったのに、私はその声を知っている気がした――……。