大陸暦1975年――01 いつの日か2
「何が」
そう言ったベリト様はいつもの顔に戻っていたけれど、それでも眉を寄せていた。少し戸惑っているようだ。
「ほら、最初おれ、嘘をついちゃったから」
「言うなと言われていたからだろ」
「そうだけど。そのことですごく怒らせちゃったし」
「すごく」
思わずそう口にしてしまうと、カイさんがこちらを見て「うん」と頷いた。
「めっちゃ怖かった。でも、その気持ち分かるんだ。おれだって父ちゃんやナナや友達とか大事な人がもし浚われてしまって、その場所を知らないなんて嘘つかれたら怒るもん」
大事な人――その言葉を胸の内でなぞりながら、私はベリト様を見る。彼女は気まずそうに口の端を曲げている。そんな様子の彼女もお構いなしに、子供の無垢な言葉が容赦なく追い打ちをかけた。
「黒い姉ちゃんはフラウリア姉ちゃんのこと大事なんだろ? だからあんなに怒ってたんだよな?」
ベリト様は視線を泳がせながら寄せた眉根を痙攣させている。これは気まずそうだなんてものではない。ものすごく困っている。
こうなってしまったのは私の余計な一言の所為だ。だからここは私が責任を持って、この場を取り成すべきだろう。
「そうなのですか?」
そんなことを思いながらも、私の口から出たのはカイさんに便乗する言葉だった。彼女を助けることよりも、好奇心が勝ってしまった。
それは、だって、仕方がないと思う。聞いてみたかったのだから。ベリト様の気持ちを。彼女が私のことを本当にそのように思ってくれているのかを。
「違うの?」
「ベリト様?」
子供と大きな子供の二人が、大人を見上げながら問い詰める。後ずさるベリト様の顔がみるみる険しくなる。そして最後には私達に気圧されるように背を向けると「外にいる」とだけ言い残して、さっさと出入口から出て行ってしまった。
「やっぱ、まだ怒ってるのかなぁ」
カイさんが、がっくりと肩を落とす。
その純粋さに、私は思わず笑みがこぼれる。
「いいえ。全然、怒ってませんよ」
「え、でも、めっちゃ顔が怖かったよ」
「あれは照れてるんです」
「え、そうなの?」彼は怪訝そうに首を傾げる。
「そうなのです」
ふふ、と私は笑ってしまう。
流石に口には出してくれなかったけれど、それでもベリト様のその態度だけで私は大満足だった。
それから私とカイさんは少しだけ雑談をしたあと、外に出た。
「お待たせしました」
背を向けているベリト様が肩越しにこちらを見て、また正面に向き直る。
「今日は来てくれてありがとう。気をつけてな」
「はい――」
「おい」
別れの挨拶を言いかけたところで、ベリト様の声が割って入ってきた。
彼女は体を横にしてカイさんを見下ろしている。
「な、なに」
返事をした彼の顔には緊張が滲んでいた。
「お前の妹は運が良かった。何故か分かるか」
「……フラウリア姉ちゃんがいたから」
「そうだ。たまたま決まりを破る見習い修道女が近くにいたからだ。これは普通ではありえない」
「――うん。分かってる」カイさんが真剣な顔で頷く。「もうフラウリア姉ちゃんに頼ったりはしないよ」
「ベリト様。それはあまりにも――」
口を挟もうとした私をベリト様が見た。その眼光の強さに、思わず口をつぐんでしまう。彼女はカイさんに視線を戻すと言った。
「だが、本当に治療士が必要だと感じたのならば私のところへ来い」
「え」カイさんが驚くように目を見開いた。
「家は分かるだろ」
「フラウリア姉ちゃんがいつも出入りしてる家……?」
「そうだ」
「えと、黒い姉ちゃんも、治療士なの?」
「でなければこんなことは言わん。だが、私は滅多なことでは人を治療しない。それでもいいというのなら話しぐらいは聞いてやる。ただし期待はするな。必ず助ける保障はない。あと私は黒い姉ちゃんという名前ではない。ベリトだ。それと私には絶対に触れるな。触れたらこの話は無しだ」
ベリト様はそこまで言い連ねると、顔を背けた。その口端は先ほどと同じように曲がっている。その表情でカイさんは先ほど私が言ったことを思い出したのだろう。だから自然にとでもいうように頬をほころばせた。
「うん。分かった。ありがとう。ベリト姉ちゃん」
「ベリト様。ありがとうございます」
角を曲がり、手を振るカイさんが見えなくなってから私は言った。
「礼を言われる筋合いはない。それに言っただろ。必ず助けるつもりはないと」
ベリト様はそんなことを言っているけれど、私には分かっている。あのように言ったからにはきっと、何かしら動いてくださると。
「お前も、見習いのうちは我慢しろ」前を向いたまま彼女は言った。「そして、修道女になっても気持ちが変わらないのなら好きにすればいい。ただし、絶対に一人では行くな」
「はい」
「本当に分かってるんだろうな」
ベリト様が訝しげにこちらを見る。私の返事が早すぎた所為で、軽く受け取っているように聞こえたのだろう。それに加えてこんなに頬を緩ませていたら、真剣に聞いているのかと疑いたくなるのも無理もない。
でも、顔に関しては仕方がないと思う。だってベリト様が優しいから、それで心が温かくなってしまって自然と表情にも表われてしまう。これは言わば彼女の所為だ。
私は彼女からしたら理不尽な開き直りをすると、締まりのない顔のまま言った。
「本当に分かっています。ご心配でしたら視られますか?」
彼女に手を差し出す。口で伝わらないのなら触れて視てもらうしかない。そうすれば分かっていただけるはずだ。私が半端な気持ちで返事をしたのではないことを。
ベリト様は私の手を見やると眉を寄せた。
「そうやって、心の内を軽々しく見せようとするな」
低く窘められる。だけど決して怒っているわけではない。気遣ってくださっているのだ。
「軽々しくではないです。ベリト様だからですよ」
私は彼女に微笑みかける。
そう、私だって誰にでも簡単に心の内を見せるわけではない。
心から抵抗なく見られてもいいと思えるのはベリト様だけだ。
それが、もうすでに全てを視られてしまっているからなのか、それとも彼女が私の心を救ってくれたからなのかは分からないけれど、ともかくにも私は彼女にだけはそう感じている。
ベリト様は戸惑うように私の顔と手を交互に見ると、やがて視線を逸らして諦めたかのように息を吐いた。
「分かった。信じる」
「それは、よかったです」
触れてもらえなかったのは少し残念ですけれど、と私は胸中で付け加える。
けれど、それも仕方のないことだ。
ベリト様はこれまで人に触れないようにして生きてきた。
無闇に人の記憶を視てしまわないよう気をつけて生きてきた。
その戒めとも言える彼女の思いやりは、年月を重ねることにより彼女の中で枷のようになってしまっているのだと私は思っている。
人に触れてはいけないと、人に触れられてはいけないと、それが深く心に刻まれてしまって、能力のことを抜きにしても自分から人に触れることに抵抗があるのだと思う。
だから、いくら私が視られることに抵抗がないと示しても、彼女からは触れてはくれないだろう。
でも、だからといってこの先ずっとそうだとも限らない。
だって、彼女と出会ってこの数ヶ月でも変化はあったから。
彼女は私が触れることを許してくださったから。
それは無理矢理に触れたあの時のことではなく、昨日のことだ。
ベリト様を抱きしめた時、私にはそれが分かった。
たとえ心が視れなくても、委ねられた身体で、背に回された手で、それが伝わってきた。
彼女が心から私が触れることを許してくれたことを――。
だとしても彼女の気持ちのことを考えると今も気軽に触れることはできないけれど、それでも私は信じてる。これからもっと関係を育んでいけばいつの日かきっと、彼女の心の枷が外れると。
自然とベリト様に触れられて、そして彼女も私に触れてくださる日が来ると。
「ベリト様」
隣を歩くベリト様を呼ぶ。
なんだ、とでも言うように彼女が視線を向けてくる。
「これからも、よろしくお願いします」
脈絡のない挨拶に彼女は怪訝そうに眉を寄せた。それから何かを考えるように視線を外したけれど、すぐにこちらを見て「あぁ」と小さく応じる。
短いけれど、私の言葉を受け入れてくれているのが伝わってくる優しい返事だった。
これからもベリト様と一緒にいられる。
そのことを私は心から嬉しく感じながら、彼女と二人、修道院へと帰路についた。