大陸暦1975年――13 救い
ベリトとフラウリアの姿が見えなくなるまで見送ったあと、ユイは視線を横に向けた。
隣にいるイルセルナはまだ二人の姿が消えた場所を見ている。晴れやかな微笑みを浮かべながら見続けている。その顔をよく見ると、目もとがわずかに滲んでいた。
「泣いてます?」
そう訊くと、イルセルナは慌てて否定した。
「な、泣いてないわよ。少し涙ぐんだだけ」
それを泣いていると言うのでは、とユイは思ったが口には出さなかった。
彼女がフラウリアのことでどれだけ悩んできたのかユイも知っていたから。
そもそもイルセルナがお使い途中で失踪したフラウリアの捜索に乗り出したのは、自分がそのことで心を痛めていたからだった。
それを見かねたイルセルナが、彼女の部隊の領分ではないのに守備隊に協力を申し出てくれたのだ。
修道院から捜索願いを出されていた守備隊は当初、これは自己判断での失踪だと読んで本格的に動いてくれてはいなかった。
それは稀に修道院での暮らしが馴染めず逃げ出してしまう見習いがいるからであり、そしてその場合は数日で戻ってくることが殆どのため、そう考えてしまうのも仕方のないことではあった。
けれどフラウリアはそういう性格の子ではなかった。
彼女は修道院での生活を大切なものだと考えていたし、学ぶことに誰よりも積極的で喜びすらも感じていた。それはユイだけでなく、彼女が以前いたホルスト修道院の誰もが知っている。
だからその意見を汲んで、イルセルナは最初から誘拐の線で動いてくれた。
その結果、フラウリアは失踪から三日後に見つかった。
これは星都の失踪者が発見された場合の日数を鑑みれば異例の早さだった。
正直、守備隊だけではこうはいかなかっただろうと思う。全ては彼女の部隊が寝る間も惜しんで情報を集め、捜索してくれたお陰だ。
だが、見つかったフラウリアは生きているとは到底、言えない状況だった。
それでも命を繋ぎ留めることができたのは、星都一の神星魔道士――そうユイは思っている――であり、ユイの友人でもあるアオユリが治療したからだ。
しかしフラウリアは目を覚ましても意識が戻ってこなかった。
心が死んでいたからだ。
そういう事例を、星教の癒し手として多くの人を治療してきたユイも目の当たりにしたことがある。そして、だからこそ分かっていた。
心が死んだままの人間は、いずれ体も死んでしまうことを。
だからイルセルナが最終的にあの決断をしたとき、ユイは何も言えなかった。
そして心から申し訳なく思った。
そんな決断を彼女にさせてしまったことを。
自分がフラウリアのことを話さなければ、彼女がこんな重荷を背負うことはなかったのにと。
ベリトにも同じ気持ちだった。
けれどベリトはフラウリアを救うことを選んだ。
彼女に安楽死を与えるのではなく、新たな命を与えた。
それを聞いたときは驚いた。しかし納得もしてしまった。
あの子なら助けたくなるかもしれないと。
ユイがフラウリアと初めて会ったのは、彼女がホルスト修道院に入った五年前のことになる。
貴重な神星魔法の素養者である彼女に、ユイがあちらに出向いて勉強を教えることになったのが切っ掛けだ。
ホルスト修道院には当時、フラウリア以外の神星魔法の素養者がいなかった。
いや、そもそもそれ以前に神星魔法の素養者はこれまでユイがいるルコラ修道院が引き受けており、ホルスト修道院にはそれを受け入れられる体制が整っていなかった。
それでもわざわざフラウリアをホルスト修道院に入れたのは、本人の希望を尊重したからだ。それはホルスト修道院のほうがフラウリアの地元が近いからという理由だという。おそらく故郷に対して思うところがあったのだろう。それをフラウリア自身は決して強く希望したわけではないようだが、ホルスト院長はそれを聞き入れてあげたのだった。
そんな理由でフラウリアとはあの時まで二人きりで授業をした。だから自ずと勉強以外の話をすることも多かった。
ユイがフラウリアと接する内に彼女に抱いた印象は、白い、だった。
彼女には孤児なら少なからず持っているような心の濁りというものが全くなかった。
年相応に悩んだり悔やんだりすることはあったが、生きるためにしてきたことを良くないことだと自覚しながらも決して後悔することなく、真っ直ぐに前だけを向いて生きていた。
ベリトはおそらくそれを視てしまったのだろうと思う。
だから助けたくなったのだ。
彼女は優しい人だから。
そしてイルセルナもフラウリアにあのように言ってもらえて心の荷が落ちたのだろう。
だからこそ、こんなに晴れやかな表情を浮かべているのだ。
「よかったですね」
そう声をかけると、イルセルナがこちらを向いて微笑んだ。
「お互いにね」
そう、お互いにだ。
フラウリアが救われたことは、お互いにとっても救いになった。
最初、イルセルナがフラウリアの申し出を許可した時はどうなることかと思ったが……終わりよければ全てよし、という言葉はまさにこういうときに使うのだろう。
一つ危惧することがあるとすれば、ベリトがこれからずっとフラウリアの記憶を抱えて生きていくことだが、それも不思議と大丈夫だろうと思える。
フラウリアが彼女の側にいるのなら、きっと大丈夫だろうと。
そこに根拠なんてものはないけれど。
それでもどうしてか、先ほど並んで歩く二人の姿を見ていたらそう思えてならなかった。
「さて、そろそろ戻るわ」
イルセルナは手を合わせて言った。
「後片付け?」
「そう。ベリトったら派手に暴れてくれちゃったからねー」
それは後から現場に駆けつけたユイも見ている。あそこにいたのは小規模な犯罪集団だったようだが、その殆どがベリトによって壊滅させられていた。
ベリトには武術の心得がないようだが、以前は壁近に住んでいたこともあり荒事には慣れているらしかった。それに加えて彼女は人並み以上に人体の理解が深い。どうすれば人間を簡単に行動不能にできるかよく知っている。
昨日、現場に倒れていた人間も綺麗に急所ばかりが狙われていた。
それでも一応、ベリトは一般人だ。たとえ相手が悪人で、そして人助けのためだったとしても、傷害や殺人を行なえば正当防衛を立証するまで監獄棟に勾留されてしまう。
そうさせないためにも今回のことはベリトを特例の協力者とした上で、イルセルナの部隊が検挙のために行なったことにするのだろう。
「それじゃあね」
「えぇ」
イルセルナは背を向けて歩き出した。が、数歩進んだところで「あ、そうだ」と声を上げてこちらに向き直った。
「ユイ、今日も当番じゃないわよね?」
当番というのは修道院に泊まり込むことだ。
本当は昨日も当番ではなかったのだが、フラウリアが心配だったので泊まったのだった。
「えぇ」
「それなら今夜、外でお食事でもいかがですか?」
イルセルナはそう言いながら、右腕をお腹の前に、左手を背中に隠して軽く礼をした。貴族の礼だ。その仕草自体は様になっているのだが、それでも芝居がかったように見えるのは本来は彼女がそれをされる側の人間だからなのもあるが、一番は慣れていない所為だろう。イルセルナがそんな気障なことをするのはおそらく自分ぐらいだから。
そんな気取った彼女の姿に思わず口元が緩みそうになったが、それでもそれに耐えてユイは疑問を口にした。
「仕事、夜までに終わるのですか?」
「終わらせるわよ」
イルセルナは自信満々に胸を叩く。
「貴女のその言葉ほど、信用ならないものはないのですが」
もしくは非番という言葉か。
何かあれば休日なんてお構いなし。呼び出しを受ければ軽快に仕事に行ってしまうのがイルセルナという人間だった。ユイも仕事が好きではあるが、彼女ほど仕事馬鹿ではないと思っている。
イルセルナは痛いところを突かれたというように、ぐっ、と顔をしかめた。きっと今、彼女の脳裏にはこれまで約束をすっぽかした時のことと、途中で抜け出した時のことがよぎっていることであろう。それも一度や二度の話しではない。だからユイもあのように言いたくはなる。
イルセルナは一通り視線を巡らせると、こちらを覗うように上目づかいで見てきた。それは子供が何かをねだる仕草に似ている。
まったく、とユイは微かに笑みを漏らす。
「貴女がお店を決めてくださるのなら」
ユイの言葉に、一瞬にしてイルセルナの顔が明るくなった。
「もちろん! アオユリに良いお店を教えて貰ったの。期待してて!」
彼女は、びっ、とひとさし指を立てて突き出してくると、走り去って行った。
――本当に単純な人。
苦笑しながらユイは優しくそう思うと、空を見上げた。
雨上がりだからか、今日の空は格段に澄み渡っている。
いい色だな――とユイは思った。
彼女の瞳と同じ、いい青色だと。
それを少し眺めてから、さて、と空から視線を下ろした。
――私も昨日の仕事が溜まっていますし、夜までに片付けましょう。
そう胸中で呟くと、ユイは気持ち心を弾ませながら中庭を後にした。




