大陸暦1975年――12 黒い影3
二人は仲間になる代わりに一つだけ手伝ってほしいことがあると言った。
それは女の拉致だった。
どのような無茶を言われるのかと心配していたスケルはそれを聞いて内心、安堵した。
それぐらいなら自分達の力でも何とかなるからだ。壁近や壁区には消えても誰も気にも留めない女は沢山いる。それらを浚うぐらいはなんてことはない。
だが、今回の標的は壁近や壁区の女ではないと二人は言った。
その時点で嫌な予感はした。
まともな家庭の人間を浚うのは不可能ではないが危険は伴う。それこそ機会に恵まれるか周到に準備しないとなかなかに難しい。しかし、そうは思っていてもそれを実際に口に出す勇気はスケルにはなかった。
標的は追って伝えると二人は言った。
そして先週末、夜市のあとに初めてその標的について知らされた。
それを聞いた時、スケルはやんわりと反対をした。
幼いころ母親に連れられて礼拝に参加していたスケルは、たとえ信仰心がなくとも修道女に手を出すのは流石に気が引けたのだ。
しかしヴァルはこれは運命なのだと豪語した。
一度逃した獲物が、死んだと思っていた獲物が目の前に現れるなんて運命以外の何物でもないと。それに組織が潰される原因になったのもそいつだとも付け加えた。
スケルは話が違うと思った。前の組織にいた時の二人を知っている人間がまだ残っているなんて聞いてないと。
それでも、もう今さらこの話をなかったことにはできない。そんなことをすれば二人がどう出るか想像がつかない。
だから仕方なく協力することにした。
これもこの世界で成り上がるために必要なことだと自分に言い聞かせて。
だというのに。
やはり手を出すべきではなかったのだと、スケルは今、後悔していた。
修道女を見ていて一度は暗い感情に身体が支配されそうになったが、それも今ではもうすっかり消え去っている。今あるのは恐怖と後悔しかない。神の信徒に手を出そうとしたことを心から後悔している。
女は後ずさるヴァルをじりじりと追い詰めている。
そうして壁にまで追いやられたヴァルは女を見上げた。
そこには先ほどまで威勢のいい男の姿はどこにもなかった。その代わりに目に怯えの色を滲ませ、情けない顔で女を見ている男がいる。
女は左足を上げると、指の切断面を無造作に踏みつけた。
「あぁぁ! いてぇ! やめろぉ!」
わめくヴァルを無視して、女はまるで切断面を擦り潰すように容赦なく靴を押しつける。ヴァルは左手で女の靴を掴んで抵抗するが、足はびくともしない。
「やめろってぇ言ってるだろ……!」
「……やめろ、だ?」
不可解な言葉を聞いたかのように、女はわずかに首を傾げた。
「何度、聞いてきた」
それは背筋も凍るような静かで、底を這うように冷たい声だった。
「その言葉を、お前も、あいつも、今まで何度聞いてきた」
うぅぅ、と痛みに呻くだけで答えないヴァルに、女は持っていたナイフを下へと投げつけた。
ナイフはヴァルの腹に突き刺さる。あの場所はおそらくみぞおちだ。
ヴァルが悶えながら刺さったナイフに手を伸ばす。しかし、抜かれるのを阻止するかのように、女は空いた足を刺さったナイフの上に乗せた。
「覚えていないだろう。お前はそれを無視し続けたからな」
足が乗ったナイフが、ゆっくりとヴァルの腹に沈んでいく。
「あぁ、やめ」
「そして己の欲望のはけ口のためにその手で何人も殺してきた」
女は上着からナイフを取り出すと、また下へと投げつけた。今度は脇腹辺りに刺さる。そしてすかさず腹のナイフから足を上げると、新たに刺さったそれを強く踏みつけた。
「あぁぁっ!!!」
耳をつんざくようなヴァルの絶叫が地下室を埋める。
スケルはその中に修道女の声を聞いたが、それは真後ろからするというのにヴァルの声で全く聞き取ることができなかった。
「そのお前が、その言葉を口にする権利があるのか?」
女はナイフから足を上げると。
「無いだろ。あるはずがない」
見下すように態度でそう吐き捨ててから、再び強くナイフを踏んだ。
「あぁぁぁ!!!」
そこでついにスケルの心は折れた。崩れ落ちるかのように両膝をつく。
それでも石床を這うように彼はその場から逃げ出した。




