大陸暦1975年――12 黒い影2
「無視してんじゃねえ!」
ヴァルは女の肩に掴みかかろうとした――とその瞬間、これまで全く表情を変えなかった女の目が見開かれた。
女は片足を下げて身体を捻りヴァルの手を避けると、右手を上着の内に入れた。そしてすぐにその手を出しながら振り上げると、そのまま上から下へと振り下ろす。
「――あぁぁぁぁ!」
地下室に絶叫が木霊した。
それと同時に、スケルは何かが床に落ちるのを視界の端に見た。
薄暗い中、そこに目をこらす。
それは指だった。
四本の指だ。
ヴァルを見ると彼は左手で右手首を掴んでいた。その右手には親指以外の指がなくなっている。その切断面からは次々と血が流れ出ていた。
いったい何が、とスケルは女を見た。女の右手には銀色に鈍く光るものが握られている。
ナイフだ。
いや、ナイフと呼ぶにはそれはあまりにも小ぶりだった。かなり細身で鍔もない。剣身と柄の部分が連なっているような変わった形をしている。その形で軽々と骨まで切断するとは相当の業物に違いない。素材もそうだが、それに加えて魔紋が刻まれている可能性もある。
それをいったいどこから、と思ってすぐにスケルは気づいた。
上着の内側だ。そこに獲物が隠されていたのだ。
女は前のめりながら後退するヴァルに近づくと、胴を蹴り飛ばした。痛みに意識を捕われていたヴァルはまともに蹴りを食らい、いとも簡単に後ろへと吹っ飛ばされる。
「貴様――!」
ここでやっとテックが動いた。
今まで動けなかったのは自分と同じく場の雰囲気に圧倒されていたからだろう。彼は腰に携えた剣を抜くと女に斬りかかった。
女はテックのほうに向き直ると、右手に持っていたナイフをダーツのように投げた。だが、テックはそれを剣で弾く。薄暗い中よくそれが見えたなと感心していると、その直後にテックが呻いた。
見ると彼の肩にはナイフが刺さっていた。先ほど女が持っていたものと全く同じものだ。
女が投げたのだ。獲物は一本ではなかった。
見ると女の右手には新たに同じ獲物が握られている。
テックは怯みながらも剣を振り上げた。しかし女はそれを横に避けると、右手を下から上へと振り上げるように動かした。
次の瞬間、テックの手から血が噴出する。手首だ。手首の健を切ったのだ。
剣を手放して手首を掴むテックの頭を、女が鷲掴む。
「がぁあ」
大した力があるようには見えないが、それでもテックは大男に掴まれたかのように苦しげに声を上げた。テックは自分の頭に伸ばされた女の腕を掴む。だが、抵抗する間もなく何度か身体を痙攣させると、そのまま身体の芯が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
その様子を見ていたスケルは思わず一歩、後ずさる。
――何なんだ。何なんだこいつは。
派手に剣を使うでもなく、魔法を放つわけでもない。
動きもそこまで鮮麗されているようには見えない。
それでもこいつは最小限の動きで、いとも簡単に二人を倒してしまった。
確実に相手を戦意不能にさせる、最小限の傷を与えて。
こいつは人の急所を知り尽くしている。的確にそれを狙っている。
それにテックに触れた時、いったい何をした。
魔法の類いか。彼は力なく地面に転がっている。息をしているようには見えない。おそらく――死んでいる。
触れただけで人を殺せる何かをこいつは持っている。
触れられただけで死ぬ――。
剣の柄にかけたままの手が、かたかた、と震えだす。
これまでスケルは裏世界で生きる人間の一人として、それなりに死線をくぐり抜けてきた。命のやり取りはもちろんのこと、明らかに自分とは格が違う――一歩間違えれば簡単に命を取られかねない人間にだって会ったことがある。
だが、ここまで死を感じる女は見たことがない。
触れただけで人を殺せるような、いかれた奴は――。
スケルは今まさに死に直面していることへの恐怖に耐えながら相手の出方を待つ。
女はまだテックを倒したままの状態から動いていなかった。背をこちらに向けて足下に転がる彼を見下ろしている。しかしその肩は何故か頻繁に上下をしていて、なにやら様子がおかしい。
そのことに遅れて気づいたスケルは、はっ、として思った。
攻撃するなら今だ、と。
しかし、そのように頭の中では思っていても、身体が動かない。
二人のやられざまが脳裏に焼きついていて、動くことができない。
そうしてる間に、やがて女は不自然に何度か息を吸うと、おもむろにこちらに顔を向けた。
女の槍のような鋭い眼光に、スケルの身体はすくむ。
――やられる。
直感的にそう悟った。
自分はここで死ぬと。
だが、その直感は外れた。女はスケルから興味を無くしたかのようにヴァルに向き直ると、そちらに向けて歩き出した。
ヴァルは指を落とされてすっかり戦意喪失したようで、吹き飛ばされた仰向けの状態のまま、迫り来る女から逃げるように腕の力で後ずさりをしている。
そんな彼の姿を見たスケルの胸には、失望のような哀れみのような、何とも言えない気持ちが浮かんだ。
スケルが初めてヴァルとテックの悪名を聞いたのは七年も前のことになる。
その当時、とある犯罪組織に所属していた二人は、組織のために有益な情報を引き出すための拷問要員として働いていた。
二人は先代から受け継いだ拷問技術を自分達なりに改良し、生きていることを後悔すると比喩されるような拷問の腕前により、どんな人間からも確実に情報を引き出すことから裏世界では若くして拷問屋と呼ばれ恐れられていた。
普通、そういう悪名高い人間を擁することは組織にとって有益ではある。
だが、二人の場合はそうではなかった。
最初は二人も組織の仕事を忠実にこなしていた。だが、手慣れてくると仕事だけでは飽き足らず、日常的にも拷問を行なうようになった。次々と壁際の一般人を浚っては満足いくまでいたぶり殺し、その遺体の処理を仕事の時と同じく組織にさせていた。
そんな二人を組織は次第に扱いあぐねるようになった。
いくら犯罪組織といえど、無意味な殺しは好ましいものではない。たとえそれが貧民街の人間だとしても節操なく手を出し続ければ、どこから足が付いてしまうか分からない。二人の行動は組織を危険に晒す行為だ。
そう判断されたことにより、二人は生まれ育った組織から追い出されることになった。
スケルはその話を二人と飲み交わした際に聞いた。
そのことについて、意外にも二人は特に怒りを感じていないようだった。むしろあの場所には飽きていたから丁度よかった、たんまり手切れ金も貰ったからついていた、と笑い話にしていた。
それから二人は色んな犯罪組織や犯罪集団を転々とした。
二人は裏世界で名が売れていたことから、欲しがる組織はいくらでもいた。だが、どこに所属しても長くは持たなかった。おそらく内に入れてみて初めて気づかされたのだろう。この二人は簡単に飼い慣らせるものではないと。
それでもここに来る前の組織は長く続いたようだった。それはボスが仕事以外にも獲物を用意してくれていたからだという。二人は隠れ家の離れの一角を与えられ、そこで敵対組織や裏切り者などを相手にした仕事としての拷問をこなしながら、ボスに与えられた獲物を楽しんだ。
そしてそれが三年ほど続き、あの日、二人は居場所を失った。
二人が捕まらなかったのは、先ほど本人達も言っていたようにまさに運だった。
丁度、ボスの依頼で二人だけが外に出ていたのだ。
そしてそのまま二人は壁際を移動し、ここへと流れ着いた。
スケルがそんな二人を仲間に引き入れようとしたのは、彼等が裏世界で顔が利くことと、そして彼等の持つ情報が欲しかったからだ。
スケルと仲間達は、まだ犯罪組織とは言えぬぐらいの集まりだった。
小さな横流しをしては、はした金を手に入れるだけの矮小な犯罪集団。そんな自分たちが一気に成り上がるには大きな取引先が必要になる。
だが、その情報を大した実績もない犯罪集団が簡単に手に入れられるほどこの世界は甘くない。それでもどこかの大きな組織に従属すれば、そういう仕事を回してもらえる可能性があるにはあるのだが、大抵はそこまで行き着く前に下っ端として危険な仕事を振られて死ぬのがオチだ。
だからといって何もしなければ何も変わらない。このままでは小さな犯罪を繰り返した挙句、しょうもない小競合いで殺されるか、はたまたのたれ死ぬかだけの何も成せない人生になるだろう。
仲間達はそれを望んではいなかった。もちろんそれはボスであるスケルもだが、そう思ってはいても現状から抜け出せるいい打開策も浮かばない。
ボスとして今後の指針を示す必要のあるスケルは思い悩んでいた。
行きつけの酒場で仲間達と飲んでいる最中もずっと。
そんなスケルに、何しけた面してんだよ、と声をかけてきたのがヴァルとテックだった。ここに流れ着いた二人は、たまたまスケル達が行きつけにしている酒場に訪れたのだ。
裏世界での有名人である二人の登場に仲間達は大いに賑わった。
スケルも二人の武勇伝を聞いたり、また酒の勢いもあってか悩みを打ち明けたりした。
それを聞いた二人は、それならお前等をでかくするのを手伝ってやろうか、と軽い感じで提案してきた。仲間に入れてくれたら顔利きもしてやるし、役立つ情報もやると。
仲間達は誰もが賛成の声を上げた。この機会を逃す手はないと。
それはそうだろう、とスケルも思った。こんな機会が転がり込んでくるなんてもう二度とない。これは千載一遇の好機だ。
しかし、それでもスケルは最初、断りたい気持ちの方が強かった。
それは自分が悪名高い二人を上手く扱える自信がないこともあったが、それ以上に気がかりだったのは二人の組織を潰したのがあのイルセルナ率いる碧梟の眼だということだった。
あの部隊に一度目をつけられたら最後、組織が潰えるまでハイエナのように追い回されることは、裏世界でも有名な話だった。
もし碧梟の眼が二人を追っていて、それに巻き込まれでもしたらたまらないとスケルは思った。そんなことになったら自分たちのような弱小犯罪集団はひとたまりもないと。
それを言葉を選びながら二人に伝えると、彼等は心配ないと笑った。
自分たちは組織の裏方を任されており、その存在は組織内ではボスと、組織の治療士、そして気まぐれでちょっかいを出した下っ端の一人しか知らないと。他の人間の前では顔を晒したことはないし、その三人もあの日に死亡したことはある筋の情報から確認済だと。
だから追っては来ないと二人は断言した。
それでもスケルの心配は拭えなかった。
しかし元々、押しに弱い性格であったスケルは、仲間達の勢いに押される形で二人を仲間に引き入れることを了承してしまった。




