大陸暦1975年――12 黒い影1
「それはお前達が、救いようもない黒だからだ」
背後から聞こえた声に茶髪の男――スケルはしゃがんだまま振り返った。
それは最初、影に見えた。
薄暗い牢の中に浮き出てきた、黒い影。
だが、その影には二つの球があった。
光を帯びるように輝く金色の球が。
それが瞳だと気づくと、今度は白が浮き出てきた。
顔に手に、そしてそれが身に付けているシャツの色。
それらが知覚できたことにより、黒い影は人の形を帯びる。
牢の入口に立っていたのは、見知らぬ女だった。
「なんだお前は」
赤毛の男――ヴァルが苛立たしげに言った。
「どうやって入ってきた」
そう言った金髪の男――テックの声にはわずかな驚きが含まれている。
スケルもテックと同じ気持ちだった。
ここはスケルと仲間達が隠れ家にしている空き家の地下室だ。なので当然、上には仲間達がたむろしている。それだけでなく地下室の入口には見張りを立てており、誰も中に入れるなと言い付けてもある。もし仮に空き家に忍びこめたとしても、その見張りに見つかることなくここに来ることはまず不可能だった。
だというのに女は今、ここにいる。
まるで影のように存在している。
そんな女の姿に、スケルの脳裏にはある考えがよぎった。
こいつは本当に人間か、と。
もちろんそのはずだ。人間以外にあり得ない。この世界にはもう瘴魔は存在していないのだから。それでも得たいの知れない影のような女を前にして、普段なら馬鹿らしいと自分でも笑い飛ばすような想像を抱かずにはいられなかった。
女はヴァルとテックの疑問に何の反応も見せなかった。無表情のまま、ただこちらを見ている。そのことにより生まれた静寂の中、スケルの背後から声が聞こえた。
「……ベリト……さま……?」
修道女だった。それは零れ落ちたかのように小さな呟きだったが、それでも無音だったこの地下室にその澄んだ声はよく通った。
だからヴァルにもテックにも聞こえていたはずだ。
その証拠にヴァルは大きく舌打ちをした。
「知り合いか。どうやってここが分かった」
そう口にした途端、ヴァルの雰囲気が、がらっ、と変わった。彼からは側にいるだけでもたじろいでしまいそうになるほどの殺気が放たれる。こんなもの正面きって向けられたら、大抵の人間は怖じ気づいて戦意喪失してしまうだろう。
だが、女はそうではなかった。怖じ気づくどころか、まるで気にも留めていない様子で先ほどと変わりなく無表情でこちらを見ている。
そのことにスケルが驚いていると、女がこれまで閉じていた口を静かに開いた。
「そいつは連れて帰る」
スケルの背筋に悪寒が走った。女の声があまりにも冷たかったからだ。まるで感情を全てそぎ落としたかのような冷え固まった声をしている。
しかし同時に安堵も覚えていた。目的が修道女である以上、女が人間であることには間違いないからだ。相手が化物や幽霊とかではなく人間ならば、いかようにも対処はできる。
スケルは立ち上がると身構えるように片足を引いた。
それでも舐めてかかってはいけない、とスケルは思った。
たとえ相手が人間だろうと、女だろうと、何食わぬ顔でここに立っている時点でただ者ではない。
まだ相手の手の内が分からない以上、警戒するに越したことはない。
しかしスケルの思いもよそに、ヴァルは「ぷっ」と吹き出すと声を上げて笑いだした。そのことにより緊張感が漂っていた地下室の空気が一気に弛緩する。
「おいおいおい、まじかよまじかよ姉ちゃんよ。たった一人で、女一人でこいつを取り戻しにきたのか」
くくく、とヴァルは愉快そうに笑いながら無造作に女へと近寄る。その態度には女に対する警戒心などは微塵も見られない。
そんなヴァルを見てスケルは信じられない気持ちになった。
確かにヴァルとテックは自分よりも実力が上なのは間違いなく、これまで踏んだ場数も桁違いに違うだろう。
それでもこの状況下でのヴァルのその行動は、あまりにも軽率のようにスケルには映った。
しかし、たとえそう思っていたとしてもスケルにはヴァルの行動を諫めることはできない。彼の相棒のテックが何も言わずに見守っているから尚更に。
ヴァルは女の側に立つと、上から下へと一瞥した。
「しかも丸腰? ははっ、笑っちまうぜ」
「油断するな。魔道士かもしれないぞ」
そう言ったテックの声は、緊張感のないヴァルとは対照的に警戒を含むものだった。そのことにスケルは安堵する。彼も自分と同じ気持ちなのだと。
そして、その通りだ、とも思った。
丸腰の女がここまで来られた理由として 最も考えられるのは、こいつが魔道士である可能性だ。スケルは魔法の素養がないためその辺りに明るくはないが、魔法には幻覚を見せるものや、眠りに落とすようなものがあると聞いたことがある。もしかしたら女はそれらを使ってここまで来たのかもしれない。
「そうだとしても、この距離なら唱紋しきる前に押さえられるだろ」
ヴァルは女の顔に自分の顔を近づけると、にやり、と笑った。
「へぇ、可愛げはないが顔は悪くないじゃないか。それにお前、鳴賀椰か?」
その言葉にスケルは今さらながらに気づく。女の髪が闇に溶け込むように黒いことを。
黒髪は少数民族、鳴賀椰族の特徴だ。ここ星都でも観光客なのか仕事なのか住んでいるのかは分からないが、たまに見かけることがある。
「目色が違うってことは両血か?」
ヴァルの言葉に、テックはあくまで警戒を解かずに続く。
「だとしたら、値打ちもんだな」
そう、鳴賀椰族が人間と交配して子供が生まれた場合、必ず性質が父親か母親かのどちらかに片寄る特徴があった。だが、稀に両親どちらともの特徴を受け継いで生まれる場合もある。
それは両血と呼ばれており、珍品を好む客にはかなり高値で売れるとスケルも聞いたことがあった。
「だな。しかも変わった目色をしてやがる。こりゃ余計に価値が上がるぜ。いやー何だかついてんなあ。大金が勝手に転がりこんで来るなんてよ。なぁスケル?」
そう言ってヴァルが腕を広げながら半身をこちらに向けた。
その時だった。ヴァルの斜め後ろにいた女が動きを見せた。
スケルは剣の柄に手をかけて身構える。テックも同じだ。
そしてヴァルも一瞬、表情に警戒を見せたが、それはすぐに怒りへと変わった。
女はヴァルのことを意に介さず、すれ違おうとしたのだ。




