大陸暦1975年――12 少女と白の心
……知らない人間だ。
罪悪感もない。
さっさと終わらせてしまおう――。
ベリトはそう思い、少女の頭に右手を伸ばした。
そして指先が触れた瞬間、少女の中のものが津波のように流れ込んできた。
「…………!!」
――……人を助けたかった。
ただ、それだけなのに。
それなのに少女は陵辱された。
少女に愛憎を抱いていたかつての孤児に騙されて。
そいつの仲間である、笑顔を貼り付けた男達の手で。
殴られ嬲られ拷問までされた。
その黒い感情を全身で受け続けた時に感じた少女の感情――。
そのあまりにも強い感情の津波が、ベリトの中を一瞬で埋めた。
ベリトは立っていられなくなり、崩れ落ちるように両膝をついた。
次いでやってきた強い胸の痛みに、思わず掻きむしるように胸倉を掴む。
その痛みの強さに、少女に倒れ込みそうになったのを何とか前のめりで留める。
そのままの体勢で痛みに耐えていると、今度はふいに意識が途切れそうになった。
それを意思の力で繋ぎ止め、原因を探る。
神経を研ぎ澄まして異常を探し出す。すると胸を掴んだ手に違和感を覚えた。
手が上下していない。
――呼吸だ。
張り裂けるような胸の痛みが、呼吸を阻害している。
気づかないうちに息を吸うことをしていなかった。
このままでは不味いと、とりあえず呼吸をすることを意識する。胸の痛みに耐えながら、不規則な呼吸を何度も繰り返す。そうして不格好ながらも何とか呼吸活動を維持できるようになると、今度は吐き気のようなものが込み上げてきた。
ベリトは咄嗟に口元に手を当てた。
内から溢れ出ようとするそれを、押しとどめようとする。
しかし、それは無駄な抵抗だった。指の隙間からは歯の根が合わない音と嗚咽が漏れ、目もとからは涙が流れる。その涙は次から次へと少女の両膝に落ち、白いワンピースに薄い灰色の染みを作った。
……これは自分が少女に抱いている感情ではない。
自分の中を埋めた、少女そのものの感情だ。
もう泣くこともできなくなった。
心が壊れて、痛みを訴えることもできなくなった少女の――。
それに対して、ベリトには何も為す術はなかった。
身体を縮こませて、その痛みと感情に耐えるぐらいしかできなかった。
そうしてどれぐらい経っただろうか。次第に意識が朦朧としてきた。
人は強い痛みに晒されると、意識を飛ばしてしまうことがある。
今の状況はまさにそれだった。
ベリトは落ちそうになる意識を、唇を噛んで必死に繋ぎ止める。
――駄目だ。
ここで倒れてしまってはセルナが要らぬ責任を感じてしまう。
やはり頼むべきではなかったのだと、後悔を強めてしまう。
それでは意味がない。引き受けた意味が。
だから今は耐えなければ。
これは永久的なものではない。一時的なものだ。
時間が経てば、そのうち収まる。
これまでもそうだった。
触れてしまった人の感情に内をかき乱された時も、そうだった。
ここまでではないにしても、こういうことはあった。
だから、これもいずれ収まる。
それまで意識を保つんだ――。
唇を噛んでいる歯に力がこもる。
そこから血が滲み出て鉄の味を感じた、その時だった。
頬に何かが触れた。
ベリトはうなだれ閉じていた瞼を開けてそれを見る。
霞む視界に映ったのは、手だった。
少女の手がベリトの頬に触れている。
ベリトは驚き、少女を見上げた。
少女の目はまだ虚ろを宿していた。
決して意識が戻ったわけではない。
それでも心が壊れたまま、少女は無意識にベリトに手を差し伸べていた。
その手は少女の人形のような姿からは想像できないぐらいに、温かなものだった。
それを知覚した途端、触れた手に吸い込まれるように、ベリトの意識は急激に遠のいていった。
気づけばベリトは開けた空間にいた。
――これは。
辺りを見回して、そうか、と気づく。
そうか。
これは、少女の心の中だ。
どうやら、いつの間にか引き込まれてしまったらしい。
しかし、どうして。
自分の能力は人の心を――根源色を視ることができるものだ。
記憶や感情が視られるのは、その副産物に過ぎない。
そして普通は、それ以上のことはできない。
心にはそれを守る壁のようなものがあり、それを無理やり越えると心と、下手したら体までもが壊れてしまうからだ。人が心を壊すのも肉体的・精神的苦痛によりその壁を侵犯されたからであり、自分の人を死に至らせる能力もこの応用から来ている。
そしてそれは心が壊れた人間も例外ではない。たとえ心を壊していたとしても、防壁はまだ作用している。
だというのに自分は今ここにいる。
壁を侵すことなくここに立っている。
壁の内側、少女の全てを視ることができる場所に。
心に触れられる場所にいる。
こんなこと普通はありえない。
相手が自分に心を許しでもしなければ――。
そう、つまり少女は自分に心を開いたのだ。
身の知らずの自分に。
いったい、どうして。
ベリトは開けた空間を――心の中を歩く。
所々にある蝕まれてしまった記憶の欠片を横目に進む。
ここの空間の色は、その人を成り立たせる根源色だ。
基本的に根源色は様々な色が混じり合っている。
たとえ一つの色でも色んな濃度が含まれているのが普通であり、一途なまでに単色の人間は相当に珍しい。ベリトがこれまで視た中でも、今のところ一人しかいない。
ベリトは空間を見上げる。
ここには一つの色しかなかった。
明るさも暗さも統一の。
混じり気のない、白、一色。
少女の心は――あまりにも白かった。
けれど、その白い心はヒビだらけだった。
黒い亀裂――それが少女の心の傷の多さ。
だけど、それでも、ここは白かった。
あれだけの仕打ちを受けても、黒い感情に浸食されてもなお、染まることの無い白――。
そのヒビだらけの白い心の中心に、それはいた。
周囲を囲う黒い霧から身を守るように、うずくまり小さく身を縮めている。
誰も憎まず、誰も憎むことができず、痛みに耐えている。
今なお自分を苛む黒い声に脅えながらも、それでも色を濁らすことなく。
幼子となった少女は一人、静かに泣いていた――……。
頬に温かさを感じた瞬間、目の前の景色が切り替わった。
先ほどまで視ていた白い空間とは別の白が、視界に入りこんでくる。
少女のワンピースだ。
戻ってきたのだ。
ベリトは掴んでいた自分の胸元を見る。
胸の痛みは収まっていた。
もともと存在しなかったかのように、綺麗さっぱり無くなっていた。
それだけでなく、自分の中を埋めていた少女の感情も見当たらない。涙も止まっている。
まるで、それらを少女がその手で吸い上げたかのように。
……いや、きっとそうなのだろう。
だから自分を招き入れたのだ。
自分の中にあるそれを、元あるべき場所へと戻すために。
全く知らない人間である自分に心を開いてまで――。
「……馬鹿だなお前は」
ベリトの口から零れたのは、言葉に反して酷く優しい声だった。
――本当に馬鹿だ。大馬鹿者だ。
こんなになってもまだ、人に手を差し伸べようとするなんて。
自分のことではなく、他人を助けようとするなんて。
それも会ったばかりの、いや、まともに出会ってすらもいない人間を救おうとするなんて。
なんて馬鹿なんだろう。
こんな馬鹿な奴を、今まで視たことがない。
こんな馬鹿みたいに白く。
優しく。
温かくて。
こちらの心が洗われそうになるぐらいに。
清く、綺麗な心を――。
ベリトは自分の頬に触れている少女の手を優しく握ると、ゆっくりとその手を下ろした。
そして、それに代わるように今度はベリトが少女の頬に触れる。
触れた指先からは少女の体温を感じる。
泣いている白い心が視える。
その心を視ながら、ベリトは少女の頬を指で優しく撫でた。
まるで涙を拭うかのような仕草で。
心の中でしか泣けなくなった少女の涙を――。
「そんなんだから、そんな目に合ったんだ――」
「――フラウリア」




