大陸暦1975年――12 雨の中の来訪者
日が暮れてポツポツと降りだした雨は、夜がふける頃には本降りとなっていた。
窓やカーテンを閉め切っていても、外から激しい雨音が入り込んでくる。
ベリトはその音を聞きながら、執務椅子に座って遅すぎる朝刊を読んでいた。
口に咥えたタバコからは、もやもやと煙が立ち上っている。それを苦そうな顔で味わいながら、紙面に視線を走らせていた。
朝刊の紙面を埋めるのは、良いこと二割、悪いこと六割、ほか二割だ。
ベリトが新聞を読むようになってから何年も経つが、この割合には大きな変化はない。つまりは、良いことよりも悪いことが多く起こっているのが星都の日常だということになる。
しかし、これがこの国の歴史において普通かと言われればそうではない。
昔は星都もここまで治安が悪くはなかった。流石にその時代にベリトはまだ生まれてはいないが、図書館に収められている古い新聞からそれは読み取ることができる。
そして、治安が悪くなってきているのはなにもこの国に限った話ではない。
他国も目に見えて犯罪発生率は上がっている。その原因についてはどの国でも明言されていないが、少しでもこのことを調べた人間なら、その境界線ぐらいには気づける。
およそ三百年前に起こった封星門戦争を境に、犯罪が増え始めていることを。
それはその戦争で、この世界から人間の絶対的脅威であった瘴気と瘴魔が全て消滅したことが直接的な原因だとベリトは考えている。
人は瘴気と瘴魔がいなくなったことで、それらに命が脅かされることのない生を手に入れることができた。
とはいっても、もともと大都市に住む人間は、そこまで瘴気と瘴魔に脅かされる生活をしていたわけではない。星都のような各国の首都には、瘴気と瘴魔の侵入を防ぐ大規模な結界が張られており、都内にそれらが侵入することは稀で、被害者が出ることも滅多になかった。
直接的な危険に晒されていたのは地方の街や村、交易などする商人、そしてそれらを退治する冒険者や各国の治安部隊などだ。
それでも知らぬ間に、人の心は抑圧されていたのだとベリトは思っている。
たとえ安全圏に住んでいても、都市の高き塀の向こうに自分の命を危険に晒すような存在がいる。人の脅威がいる。そのことがこれまで心の枷となり、人々の心に真の安寧をもたらすことはなかったのだと。
そして今、それらが無くなったことにより人は抑圧から解放された。
瘴魔が歴史上に登場した瘴竜大戦以来。
およそ二千年振りに、人は心の自由を手に入れたのだ。
そうなると人の心には余裕というものが生まれてくる。
今まで見向きもしなかったものに目を向けるようになり、聞きもしなかった心の声に耳を傾けるようになる。
それが普通の人間ならまだいい。多くの場合は、心の声も良いように働くだろう。
だが、普通でなかった場合はどうだろうか。
生まれつきの悪人が、心の声に、欲望に忠実になってしまっては何が起こるだろうか。
決まっている。
だからこその現状なのだ。
そこまで考えて、ベリトは自嘲するように鼻で笑った。
こんな持論、信仰は薄れど、まだ多くの人間が星教徒であるここでは受け入れられないだろうなと思った。
特に敬虔な星教徒は盛大に眉をしかめることだろう。
最悪、人に生まれついての悪などいない、と星教の教えを長々と説いてくるかもしれない。
もちろんそれはベリトにも分かっている。
生まれ育った環境や、運の悪さ、魔が差したともいえる何かしらの切っ掛け、そして回りに流されることにより犯罪に手を染めるものも多いことを。
だから、その考えを否定するつもりはない。
信じるのは自由だ。
だが、一つ言えるのは、そういう人間もいるということだ。
生まれついての悪人が。
心が黒い人間が、この世には存在している。
黒に染まったわけではない。生粋の黒が。
そのことをベリトは事実として知っている。
そういう人間を、視たことがあるから――。
ベリトはタバコの灰を灰皿に落とすと、再び咥えて紙面をめくった。
今日も何枚にも渡って傷害、失踪、殺人、強盗、恐喝、密輸、など星都で起こる様々な犯罪について記されている。
こんなことだから、あいつも忙しくなるばかりなんだろうな――そんなことを思いながら読み進める。
正直、こんなものを読んでいても気が滅入ること請け合いだが、大分前に買い込んだ本は全て読んでしまったこともあり、他にすることもない。
――明日、図書館と本屋に行くか。
そう考えて、すぐに人の波を想像してしまいベリトはため息をついた。
外に出るのは気が進まない。
いや、進まないなんてものではない。本当に心の底から憂鬱だ。
しかし、背に腹は代えられない。頭を動かしていない時間ほど苦痛なものはない。
退屈が人を殺すからという比喩的な意味ではない。むしろ本当に殺してくれるのなら、タバコのように進んで退屈を嗜む。だが、残念ながら実際に退屈は人を殺さない。
ベリトが暇を嫌うのは、少しでもぼんやりしようものなら思い出してしまうからだった。
これまで視てきた記憶が、その中で心に残ってしまった記憶が、ふと蘇ってきてしまう。まるで自分の記憶のように、他人の記憶を思い返してしまう。
それをベリトは嫌っていた。
だから出力でも入力でも何でもいいから、常に頭を動かしておきたかった。
――これを読んだら書庫で古い本でも漁るか。
そう思った時だった。激しい雨音の中に違う種類の音が混ざったことに気がついたのは。
ベリトは外に意識を向ける。
それは馬の足音と車輪の音――馬車だった。
その馬車はベリトの仕事部屋の前で止まる。
この時間の来訪が誰かは決まっている。むしろベリトはそのために待機している。
事前に聞いた予定によれば、今日は大規模な検挙は行なわれていないはずだが……となると巡回中に小競合いでもあったのか。
――ったく、雨で鈍りでもしたか。
ベリトは来訪者を迎えるために灰皿でタバコの火を消した。だが、朝刊を見るのは止めない。やっていることを中断せずに出迎えるのはいつものことだ。
それでも外には意識を向けていた。場合によっては迅速に動かなければならないこともある。本当に重症の場合はベリトが呼び出されるのでそれはないにしても、一応は状態を見定めなければならない。だから気配を読む――読んですぐに違和感に気づいた。
馬車から降りてきたのは三人だった。
普段、来訪は二人のことが多い。本人と一応の護衛だ。
三人でここに訪れたのは今日まで数えるほどしかない。彼女がそれなりの傷を負った時だ。
まさか、とも思ったが、本人の気配はしっかりとしている。もう一人の知った気配もだ。弱いのは知らない気配のものだ。これに似たものをベリトは知っている気がした。
嫌な予感がした。
出入口の扉が開く。
開け放たれた扉から入ってきた強い雨音に、扉上にある鈴の音が掻き消された。
「ヘマでもしたか」
ベリトは来訪者に向けて、朝刊から目を離さずに言った。
それが違うと分かっていても、これまで出迎えの言葉などかけたことがないベリトは、いつもの調子でそう口にするしかなかった。
ベリトの言葉に、来訪者はいつもより落ち着いた声で「いいえ」と答えた。
その声音で嫌な予感が当たったとベリトは思った。
出入口へと視線を向ける。
そこには脱いだ外套を手に、滅多に見せない困り顔を浮かべているイルセルナがいた。




