大陸暦1975年――12 予感4
イルセルナは少年に目線を合わせると微笑んだ。
「こんにちわ。私はルナって言うの。貴方のお名前を聞いてもいいかな?」
ベリトとは打って変わった優しい口調に、強張っていた少年の表情が和らぐ。
「カイ、です」
少年――カイは名乗ると、ちらちら、とイルセルナを覗いながら続けた。
「お姉さんは、その、もしかして、騎士様ですか……?」
そう言ったカイの目には、もう涙は滲んでいなかった。それだけでなく、先ほどまで怯えの色を宿していた瞳には明らかな憧憬が浮かんでいる。
「そうよ」
イルセルナが頷く。嘘は言っていない。
彼女は一応、騎士を志す士官学生などが受ける騎士認定試験にお忍びで参加して受かり、騎士の称号を得ている。王族にはそんな称号など全く意味を成さないのだが、彼女は腕試しをするためだけにそれを受けたのだった。
「そう、なんだ」憧れの存在を前にしているからか、カイは落ち着かない様子を見せている。「でも、どうしてこんなところに」
ここでイルセルナがこちらに横目を向けてきた。彼がフラウリアの行方を知っているのね、と視線で問うているのが分かったベリトは小さく頷く。
「ちょっと人を探しててね」
「人」
カイは覗うようにこちらを見ると、すぐに慌てて視線を逸らした。ベリトが言ったことを思い出したのだろう。
「フラウリアって名前の女の子なんだけど知ってる?」
予想通り、とでも言うようにカイは、ぐっ、と口を結んだ。
そして、ためらいながらも「うん」と頷く。
「どうして知ってるの?」
「大通りに遊びに行こうと思った時にたまたま会って挨拶してくれて、それからときどきお話しするようになりました。それと」
それと、とイルセルナが優しく促す。
「妹の怪我を、治してくれました」
「そう。そのフラウリアなんだけど、今日は見なかった?」
カイは眉根を寄せて視線を彷徨わせた。言うべきか迷っているようだ。
そんな彼にイルセルナは微笑みを消して、真剣な表情を向ける。
「カイ。フラウリアはね、数ヶ月前に大怪我をしたの」
「え」カイは驚くようにイルセルナを見た。
「今は元気になっているけれど、それでもまだ長く出歩くのはよくないし、魔法も身体の負担になるから本当は使わないほうがいいの」
それを聞いて、カイは顔を歪めて目を伏せた。
イルセルナがこれをわざわざ伝えたのは、カイの良心に訴えかけるためだ。
「だから、どこにいるか知っているのなら教えてくれないかな?」
カイは少しばかり黙ると「ごめん、なさい」と悔いるように零した。
「おれ、そんなこと知らなくて」
「うん。分かってる」
イルセルナは優しく微笑んで頷く。
カイは一度、目を瞑ってからイルセルナを見た。その顔にはもう、先ほどまで浮かんでいた迷いは見られなかった。
「今日、壁近の端の方で遊んでたら怪我をした男の人を見つけたんだ。それで治してもらおうと思ってフラウリア姉ちゃんにお願いしたんです」
「どうしてそれを言いずらそうにしていたの?」
ここで、どうして隠していたのか、と彼の罪悪感に触れるような訊きかたをしないのがイルセルナの上手いところだった。ベリトならば絶対にそう口にしてしまっている。
「それは、駄目だって言われてたから」
「人に言っては駄目だって?」
「うん。最初は怪我の手当てとか上手い近所のおっちゃんにでも相談するつもりだったんだ。でも、怪我した男の人の友達が誰にも言わないでほしいって。友人に酷いことをした人に見つかるかもしれないし、それにこいつ大人を怖がるからって。それでおれ、どうしようか迷って。放っておくのもかわいそうだし。そしたら男の人の友達が言ったんだ。修道女様なら大丈夫なんだけどなって。以前に良くしてもらったことがあるし、その人はとても優しかったからって」
ベリトは目を見開いて息を飲んだ。
こいつは今、何て言った……?
修道女なら優しいから、大丈夫……?
その、言葉は――。
心臓が激しく波打ち始める。
胸が苦しくなり、内からどろりとしたものが這い出ようとする。
あの記憶が、あの感情を呼び覚まそうとする。
――駄目だ。
ベリトは胸を掴みそれを押さえつけた。
今それに飲み込まれてしまうわけにはいかない。
そうなってしまってはまともに行動が出来なくなる。
それだけは、駄目だ。
せめてあいつの居場所を確認するまでは――。
「それを聞いてフラウリア姉ちゃんのことが思い浮かんで、だから姉ちゃんに……」
カイは申しわけなさそうに眉尻を下げた。
「一緒には戻らなかったの?」
「うん。最初はおれも治療が終わるまで待ってるつもりだったんだけど、男の人の友達に終わったら姉ちゃんはちゃんと送り届けるからって言われて……家に置いてきた妹のことも心配だったし、だから先に帰ったんだ。ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。妹さん思いのお兄さんなのね」
カイは照れるようにイルセルナから視線を逸らす。
「話してくれてありがとう。そういうことなら迎えに行きたいから、その場所を教えてくれる?」
訊かれてカイはわずかに迷う素振りを見せた。
「大丈夫。探してて偶然、見つけたことにするから」
貴方から聞いたとは絶対に言わない、とイルセルナは暗に示すように言った。
「……ひどいこともしないよね?」
「もちろん。騎士は善良な人間に剣を振るったりはしないわ」
イルセルナはそう言うと、拳を軽く握った右腕を胸の前に真横に掲げて見せた。騎士の敬礼だ。
カイは憧れのものを前にしたように目を見開くと、次いで決意したように頷いた。
そこで我慢の限界だった。
口を開きかけたカイの頭を、思わずベリトは掴んでいた。
「ベリト……!」
声を上げるイルセルナを無視して、目を閉じ集中する。
もう悠長に道案内を聞いている暇はない。
今や似ている所の話ではなくなった。
同じだ。
あの時と同じだ。
細かい状況は違えど、手口が同じだ。
これが偶然なわけがない。
もし、これを行なった奴まで同じならば、ことは一刻を争う。
早く――早く目的の記憶を。
手を通じて、彼の感情が、記憶が流れ込んでくる。
驚きと、わずかながらの恐怖。そして――。
「くそ……!」
ベリトはカイの頭を解放するなり、走り出した。
「ベリト!? ごめん。ありがとう」
背後にイルセルナの声を聞きながら、来た道を戻っていく。道順を覚えていたことにより、行きよりは早く仕事部屋へ戻ることができた。
ベリトは走ってきた勢いのまま、作業机の側から近辺の地図を手にしてその場に開く。
「ベリト」
少し遅れて戻ってきたイルセルナが、駆け寄ってきた。
「説明してベリト。どうして力を使ったの? もう彼は話してくれるつもりだったのに」
イルセルナの抗議を無視して、視た記憶を頼りに地図をなぞる。
「ベリト」
「捕えてなかったのか」
食い下がってくるイルセルナを見もせず、ベリトは言った。
「え?」
「あの時、全員捕えてなかったのか!」
焦りと苛立ちからベリトは思わず声を荒げた。
主語も何もない抽象的な言葉であった。
だが、それでもイルセルナはそれだけで全てを理解し答えた。
「あの場からは一人も逃がしていないわ」そう口にして、はっ、とする。「他にもいたのね」
「同じ顔が見えた。手口も同じだ」
むしろそいつが主犯だ――と続けて言いそうになったのをベリトは唇を噛んで止めた。
そこまで言えばイルセルナを責めることになる。それは流石のベリトも望むところではなかった。
「全体を把握する時間はなかったの」
とイルセルナは口にしてすぐに顔を歪めると「いえ、これは言い訳ね」と自分を戒めるように言った。
それは分かっている、とベリトは心で吐き捨てるように思う。
セルナは奴らを一網打尽にするより可能性を取ったのだ。
対象が生きてる可能性を。
それが間違っているとは思わない。
それでも、少しは当たらずにはいられなかった。
「場所は」
作業机に身を乗り出してイルセルナが訊いてきた。その表情にはもう、先ほどまでの感情の揺らぎは微塵も浮かんでいない。急事に状況の把握と、気持ちの切り替えの早さは彼女の長所だった。
「ここだ」
ベリトは地図の一点を指す。指したのはほとんど壁区に面した壁近の、地図情報によれば空き家とされている建物だった。とはいってもその情報が正しいとは限らない。この辺りの調査などもう何年もされていないだろう。それに目的の場所がここなのもそのことを証明しているとも言える。
「残党の規模は」
「視えたのは一人、怪我人の友人を名乗っていた奴だ。だが、子供があいつを怪我人の元へと連れて行った時にはもう、そいつの姿はなかった。ただその代わりに別の男が待っていて、そいつも怪我人の友人だと名乗っていた。顔は見たことがない」
「つまり協力者がいるのね」
「あぁ。大した身なりをしてなかったことから、おそらくあの辺りに潜んでいるならず者だろう」
ベリトは忌々しげにそう言うと、砂埃にまみれた黒色の白衣をソファに脱ぎ捨てた。そして、近くの壁に掛けてある黒い上着を手に取る。
膝下まであるそれを羽織ると、上着の重量が肩へとのし掛かってきた。先ほど身に付けていたものより明らかに重量はある。それは生地の厚さの違いもあるが、それよりも内側に仕込んでいる獲物の所為でもあった。
ベリトがここに戻ってきたのはイルセルナに場所を教えるためでもあったが、一番はこれを取りに来るためだった。
相手が訓練された犯罪組織ではなくただのならず者だとしても、流石に丸腰で渡り合えるほどベリトには腕に覚えがない。いざとなれば能力で対処も可能だが、これは何度も使用できる代物ではない。だから相手の規模が明確に分からない以上、たとえ時間が切迫していても最低限の準備をして、ミイラ取りがミイラになることだけは避けたかった。
「先に行く」
イルセルナにそれだけを言い残し、ベリトは部屋を出た。
本当は手回しをしてもらいたいことがあったが、あえてそれは口にしなかった。言わずとも彼女ならそのように動いてくれるだろうと思ったからだ。そこはベリトも信頼していた。
「ベリト。無茶しちゃ駄目よ!」
その声を駆ける背中で聞きながら、上着に付いているフードを被る。
ねずみ色の空からは、予報よりも早く雨が落ちだしていた。
それは壁近に着いたころには本降りとなり、建物に当たった雨粒が、やかましくザーザーと音を立て鳴らす。
久方振りの雨だった。
そして図らずも、あの時を思い出すような雨だった――……。




