大陸暦1975年――12 予感3
そこは、壁近と呼ばれる場所だった。
壁近は壁区に次いで第二の貧民街と呼ばれる区画だ。貧しさの程度は壁区ほどではないにしても、それでも経済的に裕福ではない人間が多く住んでいる。そのため建物は長らく修繕されていないのか薄汚れて傷んでおり、しかも建ち並びかたが整然されていないことから自然な迷路を作り出していた。
その建物を間を縫いながらベリトは駆けていた。
地面に足をつける度に砂埃が舞う。この区画の地面はほとんどが剥き出しのままだ。だから、こんな場所で走りでもしたら顔まで上がる勢いで砂埃が舞ってしまう。そんなことここに住む人間にとっては慣れたものであるのだが、普段、整備された石畳の上を歩いている人間からしたら不愉快以外の何物でもない。
しかし、ベリトは立ち上る砂埃など意に介せず走り続けていた。急いでいたのもあるが、それ以上に慣れているのもあった。昔、違う壁近に住んでいたことがあったから。
ベリトは彼女の記憶を頼りに突き進む。
あの子供に近道だと言われながら案内された路地を。
そうして最後に細い路地を抜けて、少し開けた場所へと出た。
目的のくたびれた家を確認したベリトは、急ぎ足でそこへと向かう。
その家の前には一人の子供がいた。まだ十にも満たないだろう少年はそこにしゃがみ込んで、棒で地面をつついている。記憶で視た子供で間違いない。
「おい」
ベリトはその少年の前に立つと、不躾に呼んだ。
その冷たい声音に、少年の身体が、びくり、と反応する。
彼は恐る恐る顔を上げると、困惑の表情を浮かべた。
「だ、だれ」
ベリトはそんな彼の気持ちもお構いなしに訊いた。
「白い髪の修道女、見たか」
少年は驚いたように目を開くとすぐに、しまった、とでも言うように、ばっ、と俯いた。
「み、見て、ないです」
その動揺が表れた口調は、誰が聞いても少年が嘘を付いていると分かるものだった。
そんな彼の態度に苛立ったベリトは、思わず少年を怒鳴りつける。
「嘘をつくな!」
少年が、びくり、と顔を上げた。
「見ただろ! どこに行った……!」
上目遣いにベリトを見る少年の目尻に、じわり、と涙が浮かぶ。大人に怒鳴られて恐怖を感じたのか、今にも泣きだしそうに瞳を揺らしている。だが、それでも彼は口を開かなかった。視線を泳がしながらも、横一文字に口元を結んでいる。
少年の様子を見ながらベリトは考える。
こいつからは悪事を隠しているような雰囲気は感じられない。そもそもそれ以前に、そういう性格でもないだろう。こいつのことは何も知らないが、フラウリアの記憶からどんな人間かは推測できる。妹の面倒を進んで見ていることや、騎士に憧れていることから、おそらく責任感と正義感が強い性格だ。
だというのに泣きそうになってまで頑なに喋ろうとしないのは、その行為が自分のためではないからだろう。何かを守るために、良かれと思って黙っている。
そう、口止めされているのだ。
子供の単純さを利用し、子供の純粋な正義感をくすぐってまで口止めした奴がいる。
その卑劣さに怒りと、そして同時に不安と焦りが湧き上がってきた。
あの時と状況は似通っている。だが、同じというわけではない。
まだ、フラウリア自身が子供に口止めをしている可能性だってある。
壁近で治療していることを一時でも隠すために、他意なくお願いしている可能性も。
それならばいい。
それなら今後一切、外出禁止でも何でもさせれば済む話だ。
それでも、だ。
それでも、もし、自分の予感が当たっているのならば、こんなことで時間を取られている場合ではない。
ベリトは右手に意識を向けると、少年へと手を伸ばした――。
「待って!」
だが、少年の頭に触れる寸前で、強く制止する声が聞こえた。
それが誰だか分かっていたベリトは、あからさまに舌打ちをする。
彼女が追って来ていたことには最初から気づいていた。しかし、ここまでの道中が少し入り組んでいたので、それで撒けたと思っていたのだが……甘かった。
ベリトは睨み付けるように声がした方向へと顔を向けた。
その視線の先には、この薄汚れた場所にはおよそ似つかわしくない、純白と群青が基調の騎士のような装いをした女性が立っている。イルセルナだ。
彼女はずかずかとしながらも、どこか優雅に見える足取りでこちらにやって来ると、ベリトを押しのけるように少年の前に立った。そして、彼の前に片膝をつく。
こうなってしまってはもう無理に少年の記憶を視ることはできない。
それはイルセルナがベリトの能力を良く思っていないからという意味ではない。
むしろ彼女は出会った当初から安易な気持ちで――まさに凄いね、ぐらいの軽い感覚で――ベリトの能力を受け入れており、自分の記憶を視られることに関しても何とも思ってはいない。普段はベリトの気持ちに配慮して無闇に触れてくることはないにしても、必要とあらば臆することなく平然と触れてくる。この間、体調が悪くなった時のように。
しかし、そんなイルセルナでも、故意的に人の内を視ることだけは好ましくないと考えていた。
ベリトを自らの治療士にしながらも碧梟の眼に引き入れなかったのは、自分が力を行使することを望んでいないと知っていることもあるが、なによりもイルセルナのその考えによるものが大きい。
だから仕事でどんなに行き詰まっても、イルセルナはベリトの力に頼ろうとはしない。
この力を尋問に使えば便利だろうに、その話を振られたことは一度もない。
相談されることはあっても、力を行使するように言われたことはない。
彼女のために力を使ったのは、ただの一度だけだ。
――そう、あいつが頼ってきたのはこの七年で、あの時だけだ。




