大陸暦1975年――12 予感2
フラウリアを自分の元へと寄越したイルセルナの魂胆は最初から分かっていた。
自分に人との関わり合いを保たせるためだ。
イルセルナは昔からベリトが一人でいることを良く思っていなかった。
ことあるごとに自分の元に訪れるのも、何かと外の話題を振ってきたり連れ出そうとするのも、稀に人と引き合わせたりするのも、全てそのためだ。
それが心の底から迷惑だ、とまでは言わない。だが、そこまで自分に構う必要は無いと常々ベリトは思っている。だからといって突き放してみたところで堪えるような人間でもない。特にこのことに関しては何を言っても素直に聞かないのは分かりきっている。
だからイルセルナのすることにはもう、一種の諦めを抱いていた。これまでも人が多いところに行くこと以外は、気が進まないながらもだいたいのことは受け入れている。修道院の仕事もその一つであるし、わざわざ見習いが課題を届けに来ることを承諾したのもそうだ。
それでも、今回ばかりは素直に受け入れるわけにはいかなかった。
その相手がよりにもよってフラウリアだからだ。
彼女はベリトにとって今一番、近づけたくない人間だった。
それはイルセルナもユイも知っている。知りながらもこの話を振ってきたのは、イルセルナがそこに何かしらの可能性を感じたからだろう。
彼女がその事を言い出したことに、何か意味があると。
人が聞いたらそんな曖昧な理由で、とも思うだろうが、昔から直感だの運命だのを信じているのがイルセルナであり、彼女の悪い癖だった。
それに今回ばかりは付き合う筋合いはないと思ったが、その辺りは彼女も馬鹿ではない。自分がそう考えるのはもちろん読んでいた。だからわざわざ『断ったら毎回、修道院まで課題を取りに来るようになるけどいいのか』なんて脅しで逃げ道まで塞いできたのだ。
そんなこと普通なら脅しでもなんでもないだろう。なんなら本当に嫌なら一言、修道院の仕事を辞めると言えば済む話でもある。
だが、ベリトは根が真面目だった。何でも中途半端に投げ出せない性分なのだ。辞めるにしても、せめて切りがいい年末でないと自分が気持ち悪い。そう、ベリトが感じることはイルセルナも分かっている。だからこそのあの脅し文句なのだ。
どうしようもなくなったベリトは一旦、諦めた。
とりあえず引き受けて、あちらから諦めさせようと思った。
そのためには必要以上にフラウリアを突き放すつもりだった。
彼女から止めたいと、もうここへは来たくないと思わせるために。
しかし、実際にフラウリアの顔を目の当たりにすると、それができなかった。
あの顔を曇らせることは――たとえ言葉でさえも故意に彼女を傷つけることは、ベリトにはできなかった。
それだけでなく、あろうどころか勉強までも教えると口走っていた。
それに驚いたのは何よりもベリト自身だった。
何を言っているのかと、あの時は自分の正気さを疑った。
それでも、と思った。普段の態度でも見習いは自分を恐れていたのだ。そのうちフラウリアの方から根をあげるだろうと考えていた。
しかし、予想に反して彼女は全く臆することなくベリトに接してきた。
まるで普通の人間を前にするかのように、自然体だった。
こんな愛想のない人間を前にしても、彼女は笑っていた。
いつだって楽しそうに、笑顔を浮かべていた。
自分のことを純粋に――慕っていた。
無理矢理に手を掴まれた時に、それが、視えてしまった。
そして。
自分に触れられたことを心から喜ぶ、彼女の気持ちも……。
ベリトには理解できなかった。
なぜ、そこまで自分に気を許すのかと。
フラウリアは自分のことを何も知らない――知らないはずなのに。
それとも。
まさかあのことが痕跡となってしまっているのだろうか。
あの時、必要以上に触れてしまったことが――……。
ふと視線を上げる。
壁に掛かった時計は九時半を過ぎていた。
治療学の授業は九時からだ。修道院からここまでもそんなに距離はない。
最近、遅れてくることがあったが、その場合はあの壁近の子供と会っていたことは記憶を視たので知っている。
まさか今日も、とも思ったが、先日の今日でフラウリアがそれをするとは思えない。
だとすると考えられる可能性は一つ。
――まだ怒っているのか。
ベリトはもう癖のようにため息をついた。
フラウリアが意外に頑固なことは知っている。
だが、今回は自分にも非があることを理解しているはずだ。
たとえ自分の考えが譲れないものだとしても、そのためだけに自分の非を見て見ぬふりができるほど、彼女は性格がねじ曲がってはいない。むしろ劣悪な環境で幼少時代を過ごしたものには珍しいぐらいに、真っ直ぐすぎるぐらいに真っ直ぐだ。
となればやはり何があっても来るはずなのだが……。
その時、リンリン、と鈴の音が鳴った。
出入口に目を向ければ、そこにはイルセルナが立っている。
人が近づいたら気配で分かるのだが、今日は思考に捕われていて彼女の接近に全然気づかなかった。イルセルナが元々、気配が気取りにくい体質の所為で余計に。
「こんにちわ」
イルセルナは片手をあげて、いつもの調子で朗らかに挨拶をした。
フラウリアの代わりに来たのかと考えたが、すぐにそれはないと思った。
彼女の性格から、人に自分の役目を押しつけたりはしない。もしまだ怒っていたとしても、責任感から迷った挙句に結局、来てしまうのがフラウリアという人間だ。
となるといつもの用のない顔出しか。
「なんか用か」
いつも以上にぶっきらぼうにそう言うベリトを全く気にすることもなく、彼女は微笑んで答えた。
「喧嘩したって聞いてねー。お姉さんが様子を見にきてあげたんだけど、フラウリアは?」
イルセルナは意外な言葉を口にした。
それを訊くということは。
「出たのか」
「裏門ですれ違ったけれど」
「いつ」
「いつって」
イルセルナは壁掛け時計を見る。
「三十分前。……まさか来てないの?」
ざわり、と胸騒ぎがした。
これを感じた時はいつだって良いことが起きない。
――いや。
それは言い過ぎだ。
そんなことはない。
夜市の時は――……。
そこまで考えてベリトは、はっ、とすると勢いよく立ち上がった。
「ベリト?」
驚くようにこちらを見るイルセルナの横を抜けて外に出る。
そして彼女から視た記憶を頼りに走り出した。
「どうしたの、ベリト!」
後ろから困惑するような声が投げかけられたが、ベリトにはそれに返事をする余裕などなかった。




