大陸暦1975年――12 予感1
ベリトはため息をつくと、手に持っていたペンを放り投げた。
放り出されたペンは執務机に、カッ、と音を立てて落ちると、その勢いのままコロコロと卓上を転がる。そしてインク瓶に行く手を遮られる形で動きを止めた。
その様子を意味なく見届けたベリトは、椅子の背もたれに寄りかかり胸ポケットを探った。そこに収められている容器からタバコを一本取り出し、口元へと運ぶ。だが、それを咥える直前で、タバコを持つ手が止まった。
「…………」
そのまま何かを考えるように視線を横に向けると、息を吐いてからタバコを胸ポケットへと戻した。
ベリトは最近、部屋でタバコを吸うのを控えている。
いや、控えているだけではない。タバコの本数すらも減らしている。
それはフラウリアにタバコが身体に悪いと指摘されたからではない。
タバコが身体に害があることは、吸い始める前から知っている。というか喫煙する人間が知らないほうが珍しいだろう。それでも喫煙者が多いのは、タバコを大人の嗜みとする昔からの風潮と、含まれる成分による中毒性によるものだ。
だが、ベリトがタバコを吸う理由にそれらは当てはまらない。
別にベリトはタバコを吸わなくても、中毒による禁断症状には襲われない。今のように口寂しくて吸おうとしてしまうことはあるが、それは別にタバコである必要はない。飲み物でも食べ物でも何でも構わない。それが生まれつきの体質によるものなのかどうかは分からないが、ともかくそうだ。
それでも吸っているのは、身体に悪いからだ。
身体を壊してしまう可能性があるからこそ、ベリトは進んで喫煙をしている。
まさに寿命を縮めたいがために。
なにもベリトは今すぐ死んでしまいたいと思うぐらいに、人生に悲観しているわけではない。自殺願望もないし、そんな衝動に襲われたことも、過去一度ぐらいしかない。
それでも、だらだらと長く生きたいとは思っていなかった。
人が溢れるこの世界は、触れるだけで人の内を視ることができる異能を生まれ持った自分には、生きづらいものであるから。
ただ身体を壊すだけなら麻薬という手もあった。しかし、麻薬が人の意思までも壊してしまう代物だということは、麻薬中毒者を何人も診たことがあるベリトはよく知っている。寿命を縮めるには麻薬のほうが確実とはいえ、流石のベリトも意思を壊してまで少なくなった余生を生きたいとは思わない。
だからタバコぐらいにしている。
タバコを吸っているからといって長生きをする人間は沢山いるが、やらないよりはいいだろうと思う。
そういう理由でベリトは意識して部屋でもどこでもタバコを吸っているのだが、今ではそれを以前のように行なうのは難しくなっていた。
フラウリアがここに来るようになったからだ。
タバコは吸っている本人だけではなく、そこから出る煙にも害があるとされている。
なので常日頃からもできるだけ人前では吸わないようにしていたが、フラウリアに対しては更に気を使わざる得ない。彼女はまだ若いし、それに病み上がりということもある。治療から二ヶ月も経てば身体も本調子に戻っているだろうが、それでも身体に悪影響なものはなるべく近づけたくはなかった。
ベリトは腕を組むと大きくため息をついた。
ここ数日、ベリトは毎日こんな調子だった。
仕事には手が付かず、本を読んでいても内容が入ってこず、何にも集中ができない。
先日の出来事が、彼女を怒らせたことが思う以上に尾を引いてしまっている。
……フラウリアが怒った原因は理解している。
自分の言葉が彼女の感情を逆なでしてしまったことも、フラウリアが己に非があると認めながらも、それが見えなくなるぐらいに感情的になってしまった原因も、よく分かっている。
フラウリアがあの子供の妹を助けたのは、単純に同情心からだった。
しかし、その感情の根底には、彼女自身の境遇が強く結びついている。
幼いころ、強盗に襲われ死にかけた両親を助けられなかったことが。
そして、その時に誰に助けを求めても応えてもらえなかったことが。
フラウリアはその悲しい出来事を思い出したくなくて、一度は何もかもに諦めを抱いた自分を忘れたくて、それらの記憶を心の奥底に仕舞いこんでいるが、それでも行動原理としては強く表われてしまっている。
だから、約束ごとを破ってまであの子供の妹を助けたのだ。
助けてほしいのに、誰も助けてはくれない。助けてもらえるわけがない――そう諦めを感じる子供に、自覚無く自分の姿と重ねてしまったが故に。
それでもベリトから見れば、壁近の子供はまだマシな部類だった。子供には壮健で仕事もある父親がいて、裕福ではないにしても最低限の生活は送れている。
貧民街である壁区に生まれ、幼くして両親を亡くし孤児となってしまったフラウリアほどに貧しいわけではない。不幸の度合いでいうのならば、彼女のほうが断然に上だろう。
それでも、そこに大小はないとフラウリアは考えている。
貧しさに、辛さに、人の不幸に、違いはないのだと。
その中でフラウリアはその素養により、運良くあの境遇から抜け出せた。
無力だった少女は、人を助けることができる力があると知った。
だから思うのだ。自分と同じ境遇の人を助けたいと。
助けを求める人に、手を差し伸べたいと。
フラウリアにはその気持ちが強い。
いや、強いなんてものではない。
強すぎる。
だからこそ危険なのだ。
彼女は自制の利く性格ではあるが、こうと決めたら、たがが外れてしまう所がある。
特に壁際の人間に助けを求められたら、自分のことは二の次に助けようとしてしまう。
孤児時代にも、それで何度も危険な目に合いそうになっていた。
それでも、フラウリアは人を助けることをやめなかった。
どれだけ危険に晒されても、やめようとはしなかった。
そんな彼女に何を言っても無駄なのは分かっている。
どんなに壁際に一人で行くなと注意しても、本人が行動すると決めてしまった時点でそれを止めることは誰にも出来ない。ましてや、考えを変えさせるなんて無理に等しい。
それほどまでにフラウリアの人を助けたいという気持ちは根深く、自分の命が危険に晒されたぐらいで揺らぐような生半可なものではない。
そう、それこそ。
死ぬような目に合ってさえも――……。
そこまで考えて、ベリトは表情を歪めた。
そして思考を切り替えるように頭を振りながらため息をつく。
今日は授業がある日だ。だからフラウリアが来る。
その時、どう声をかけるべきか迷っている。
いや、どう反応するか、か。
自分から気の利いたことが言えるほど器用な人間でないことは、ベリトも自覚している。
だから、先に先日の話題を持ち出すのはフラウリアのほうだ。そしてまずは謝罪をしてくるだろう。それは彼女の性格からして間違いない。
そうなった時、自分も発言について謝罪するべきなのは分かっている。言葉が不適切であったことを認めるべきだと。
だが、それが簡単にできれば苦労はしない。
以前、体調が悪くなった時にきつく当たったことでさえ謝罪できていないのだ。するつもりはあったのに結局、口には出せなかった。だから今日だって出来るわけがない。
ベリトはもう何度目か分からないため息をついた。
そして自分の友人を自称する人間の顔を思い浮かべる。
――こんなことになったのは、何もかもセルナの所為だ。
あいつに対して気遣わなければいけないのも、日々の行動に支障が出るぐらいにあいつのことを考えてしまうのも全て――。




