大陸暦1975年――12 お願い
頬に触れる空気が湿っていた。
頭上には週初めから変わらず、曇り空が広がっている。最初は久方振りなこともあって珍しさを感じていたこの空も、一週間も見続けると流石に見慣れてくる。それでも今日の空は少しだけ様相が違っていた。空を覆う雲がこれまでの灰色ではなく、深みのあるねずみ色をしている。
週初めの天気予報通り、今日は午後から雨になるらしい。
その影響なのか商店街へと続く大通りには、いつもより人が少ない。こんな大通りを見るのはここを通るようになってから初めてで、何だか物悲しさを感じてしまう。陽光を遮断するほどの暗雲により風景が灰色がかっているのも、その気持ちに拍車をかける。
そんな寂しげな風景を眺めていると、次第に心細さが生まれてきた。私はそれをまぎらわすように自然と胸倉を掴んでしまう。外套の厚手の生地が手の中で、くしゃっ、となった。
そこで私は、はっ、として手を離した。
胸元を検める。外套に変なしわが付いていないことを確認し安堵する。
今日、身に付けている外套は借り物だった。それも魔紋様が施された特別な。
魔紋様とは魔法の発現に必要な古代言語《スピラナス語》――紋語を用いた描かれた紋様のことだ。衣類やアクセサリー、武器防具などに施すことで様々な効果を得ることができる。
私が今日、身に付けている外套には、雨よけと呼ばれる魔紋様が施されている。
雨よけはその名の通り水を弾く効果があるもので、一般的にもよく流通している部類の魔紋様になるらしい。とはいっても魔紋様を施すのにもお金がかかるのと、最初から施されている場合でも通常より売値が割高になるのもあって、たとえ便利ではあっても衣類全てに施されているわけではなかった。
見習い全員に支給されている外套にも、雨よけの魔紋様が施されていないのはそのためだろうと思う。そもそも見習いのほとんどが雨の日に外出することがないのだから、必要無いと言えば無い。それでも必要な場合は貸し出しすることができる。
そのことを私は今日、アルバさんに言われて初めて知った。
もしかしたら帰るまでに雨が降り出すかもしれないから一応、借りていったほうがいい。この時期の雨は存外に冷たく、濡れると身体を冷やしてしまうから、と。
彼女の言葉を思い出し、心細かった気持ちに温かなものが上書きされる。
本当に気遣いのある人だ――。
私は思わず笑みを浮かべてから、いつの間にか止まっていた歩みを再開した。
その足取りは流石に先日のように軽くはない。
それでも謝ると決めた日から、私は今日という日が待ち遠しかった。
だけど、いざ当日になると、やはり心は落ち着かない。
謝っても以前のような関係に戻れなかったらどうしようかと、不安に思っている。
それだけでなく最悪、ベリト様からお役目を解任されでもしたら……。
そうなったら彼女とはもう、会えなくなってしまう。
それは……嫌だなと思う。
本当に、嫌だ。
課題をお届けする担当になってもうすぐ二ヶ月。
週に二回、ベリト様と会うことは私の一番の楽しみになっていた。
勉強をするのも、彼女とお話しするのも、本当に楽しい。
楽しいし、安心する。
彼女といると心が安らぐ。
その気持ちが何から来るのか、はっきりとしたことは未だに分かっていないけれど、でも考えるより心がそう感じているのなら、それは嘘でも偽りでもないと思う。
私は、ベリト様が好きなのだ。
彼女と一緒にいる時間が、彼女と一緒に過ごすのが、好きなのだ。
だからこれからも彼女には関わっていきたいし、良い関係でいたいと思っている。
そのためにはまず、誠意をもって謝らないと――。
そう一人、頷いて意気込んでいると、
「フラウリア姉ちゃん」
と、ふいに声をかけられた。
見ると、花屋の手前を入った路地からカイさんが顔を覗かせている。
カイさんはきょろきょろと回りを見てから手招きした。
彼の行動を不思議に思いながらも、私は招かれるままにその路地に入る。
「カイさん。こんにちは。妹さんのお具合はどうですか」
「痛がって泣くことはなくなったよ。本当にありがとう」
カイさんは屈託のない笑顔を浮かべた。
この笑顔を見れただけでも、自分がしたことは間違いではなかったのだと思える。
……いや、言いつけを破ったことはいけないことだし反省はしているけれど。
「安静にはしていますか」
「言われた通りしてるよ」
「お若いので修復痕が馴染むまで時間はかからないとは思いますが、それでも二週間はあまり歩かせないでくださいね」
「分かってる」
カイさんは頷く。そしてまた路地から顔を出してきょろきょろと辺りを見回した。
思わず私も釣られて路地の外に目を向ける。通りには私達以外には人がいない。ここは普段からも人を見かけたことは殆どない。
「どうかされましたか?」
カイさんは「いや」と応えると私を見上げた。
そのまだ幼い顔つきには、まるで何かしらの使命を帯びているかのように精悍さが宿っている。
いったいどうしたのだろうか、と怪訝に思いながらも彼の言葉を待つ。
カイさんは一人頷くと、意を決したかのように口を開いた。
「姉ちゃんにお願いがあるんだ」




