大陸暦1975年――11 喧嘩
「すみません。遅くなりました」
仕事部屋の扉を開けてすぐ、挨拶よりも先に謝罪の言葉が自然と口から出た。頭上では扉の鈴がまだ鳴り響いている。私は肩で息をしながら扉を閉めた。
呼吸が乱れているのは、ここまで走ってきたからだ。以前、遅くなった時よりも長い距離を全速力で。あそこまで走ったのは本当に久しぶりだ。そして早鐘のように鼓動する心臓を感じながら再確認する。やはり体力が落ちていると。
休憩時間にもう少し身体を動かすことを心がけたほうがいいかもしれない――そんなことを思いながら、閉めた扉からベリト様へと向き直った。
今日、彼女はソファに座って本を読んでいた。肩で息をする私を片眉を上げて見ている。けれどすぐに視線を正面に戻すと、本を閉じて言った。
「前にも言ったが、別に時間は決まっていない」
その声はいつも通りで、私の様子を気にしているような感じはない。
そのことに安堵しながら、ソファから立ち上がった彼女に近づく。そして手に持っていた紙束のうち、まずは三枚の書類を差し出した。
「これはユイ先生からです。ベリト様に確認していただきたいと」
ん、とベリト様がそれを受け取って見る。
「それと課題です」
残りの紙束を差し出すと、彼女は書類に目線を落としたまま空いている左手を伸ばしてきた。その手は紙束を掴める距離まで来ても止まらず、あ、と思った時にはもう紙束を持つ私の手と接触していた。こちらを見ていなかったことにより、距離感が掴めていなかったのだ。
ベリト様の手が、びくっ、と硬直する。
ふいに触れてしまうことは、彼女の手を握ったあの日から今日まで実のところ二度ほどあった。
そういう時、ベリト様は決まって気まずそうに眉を寄せた。
それが、記憶を視てしまったことへの後ろめたさの表われだということを自ずと理解した私は、笑顔で返した。何も気にしてはいないと伝えるために。
むしろ私は嬉しかった。
意図せず触れてしまうということは、彼女が自然体でいる証だと思うから。
私に対しての警戒心が薄れた結果だと思うから。
また今日も気まずそうに眉を寄せるのだろうな――。
そう、微笑ましく思いながら、ベリト様の固まった手から視線を上げる。
だけど、目の前には私の予想に反した彼女の険しい顔があった。
「――行くなと言っただろ」
厳しい口調だった。
「え」私は彼女が何を言っているのか分からなかった。
「危ないから一人で行くなと。しかも魔法を」
そこで、はっ、とする。
そうか。記憶を視られたのだ。
先ほど、カイさんのお家にお邪魔して妹さんの治療をした記憶を――。
「放っておけなくて」
それは私の紛れもない本心ではあったけれど、言い訳に過ぎないことも分かっていた。
どんな理由があろうとも、私が約束ごとを破ったことには間違いないのだから。それに今言われた通りベリト様には以前、壁のほうは治安が悪いから一人では近づくなと注意もされている。その上で行ったのだから彼女が怒るのも当然のことだった。
魔法を使うと決めた時から、こうなることは覚悟していた。
でも、その相手はユイ先生だと思っていた。修道院に戻ったら、先生にはきちんと報告をして罰も受けるつもりだったから。だけど、その前にベリト様にもこのような形ではなく、自分の口から伝えるべきだった。私の治療学の先生は彼女であるのだから。
今さらそのことに気付き、私は後悔した。
そしてベリト様のお叱りを大人しく受けようと思った。
これ以上は何も弁明せず、黙って受けようと――……でも。
「あそこの奴らなら何かあってもどうにかする。お前が気にすることじゃない」
……どうにかする?
彼女のその言葉に、私は引っかかりを感じてしまった。
胸に針が刺さったかのように、ちくり、と傷みが走る。
「……どうして」
俯いた自分の口から零れた声は、自分でも驚くぐらいに冷たかった。
「どうして、そんな悲しいことを仰るのです」
どうにかできないから、あそこでは多くの人が苦しんでいるのに。
どうにもできないから、あそこでは多くの人が死んでいるというのに。
私はそれを知っている。だって見てきたから。
どうしようもできず、諦めて、死んでいく人達を――。
私は顔を上げてベリト様を見る。
「ベリト様だってきっとご存じのはずです。壁近も壁区も治療院が足らないことは。だからといって街の治療院に行くこともできない。治療費が高いから行くことができないんです。そんな人達に手を差し伸べるのは、いけないことなのですか?」
「駄目だ」
間髪いれず、はっきりと彼女はそう言った。そして私に背を向ける。
「それを……お前がする必要はない」
私が、する必要がない……?
私が治療学を学んでいる根本的な理由を、貴女は知っているはずなのに。
そういう人達こそ私は助けたいと思っていることを、貴女は知っているはずなのに。
それが分かっていてどうして、その全てを否定するようなことを貴女は言うのですか……?
人の――私の思いを踏みにじるようなことを、どうして――。
「理由を、教えてください」
私が納得するような理由を、貴女の口から説明してください。
でなければ私は貴女に、嫌な感情を抱いてしまう。
そんなことはしたくないのに、望んでなんかいないのに、そういう感情が生まれそうになってしまう。
だから教えてください。
どうして私が、そういう人達に手を差し伸べてはいけないのかを――。
けれど、ベリト様は何も応えなかった。黙ったまま作業机へと向かう。
「ベリト様……!」
その背中に食い下がるも、彼女は何も言わない。
待ってもそれ以上、言葉が返って来ることはなかった。
目の奥が熱くなるのを感じながら、私は唇を噛む。
色んな感情が胸の中に沸き起こりそうになる。
それを押さえ込もうと私は胸を押さえた。
……ここにいては駄目だ。
これ以上いたら私は、彼女を――。
「……今日は、失礼します」
それだけ言い残して、私は部屋を後にした。




