大陸暦1975年――10 祭りのあと
夜市から修道院へと帰ってきた頃には、時刻は二十一時を回っていた。
修道院は二十一時が消灯時間なので、普段ならもう部屋の明りを消してベッドに入っている時間になる。でも、今日は見習いのどの部屋もまだ明りが灯っていた。夜市の間だけ消灯時間が二十二時に後ろ倒しになっているからだ。
今日はほとんどの見習いが夜市に行っていないので、その子達は普通に寝ているものだと思ったのだけれど、どうやらみんな二日間だけの特別を楽しんでいるらしい。
こういうの何だかいいなあと思いながら、私は急いで入浴を済ませて自室へと戻った。そしてまだ消灯まで時間があったので、自分の机に飾っておいた置物の蛙を椅子に座って何気なしに眺める。
「輪投げしたんだ」
すると、寝る準備をしていたアルバさんがそう訊いてきた。
「はい」
ベットに座っている彼女に顔を向けて答える。
「よくご存じですね」
「ロネの部屋に大家族がいるからな」
想像して私は思わず笑みを漏らした。
蛙の大家族。それは何とも微笑ましい光景だ。
「ロネさん、輪投げお上手なんですか?」
「あぁ。上手いよ。あいつ絵と遊びだけは凄い集中力を発揮するからな。しかも全部いれても蛙しかいらないって言うんだから、店側としてはありがたい客だよ」
単価の高い景品を持って行かれなくて済むから、とアルバさんが笑う。
「明日もするでしょうか」
「そりゃあもちろん。絶対に」
「それは楽しみです」
私も明日また挑戦してみよう。
今日はベリト様に助けていただいての二本だったので、明日は自力で二本入れてみたい。
そしてこの蛙に友達を作ってあげたいなと思った。
それから頬杖をついて、しばらく蛙を眺めながらお祭りの余韻に浸っていると、アルバさんが「あのさ」と話しを切り出してきた。それが何だかぎこちない感じだったので、私は不思議に感じながら半身を向けて彼女を見る。
「今日は、悪かったな」
アルバさんは苦笑を浮かべて、どことなく気まずそうにそう言った。
「え」
何のことだろう、と私は首を傾げる。
「クロ先生のこと」
彼女の言っている意味を理解して、私は恥ずかしくなった。
アルバさんは夜市で私達と出会った時のことを言っているのだ。
私がその、思わず言い返してしまった時のことを。
「アルバさんが謝ることはなにも」
「あるよ」
慌てる私に彼女はきっぱりと言った。
「フラウリアはさ、クロ先生のこと、慕ってるんだろ」
……慕っている?
私がベリト様を?
そう……言われてみればそうなのかもしれない。
いや、そうなのだろう。
私はベリト様のことを治療学の先生としても、治療士としても、もちろん尊敬している。
でも、不思議とこれまで私はそのように彼女のことを見たことはなかった。
それならどのように彼女のことを見ていたかと言われれば、それも説明が難しい。
ただ、慕うという言葉だけでは説明がつかないような心の動きがあるようには感じる。
それが何かは、自分でも分からないのだけれど……。
「――はい」
それでも慕っていることには変わりないと思うので、私は首肯した。
「そういう人のことを、回りが勝手な印象を抱くのは良い気分はしないさ」
アルバさんは私があの時、何を感じていたのか気づいていた。
ベリト様が人の誘いを受けるわけがないと、お祭りに来るはずがないと思われていることに私が……そう、わずかながらにも憤りのような悲しさを感じていたことを。
「それは私も分かっているのにな。知らずうちにやってしまっていた。それは今日だけじゃなくてこれまでも。だからごめん」
そう言ってアルバさんは頭を下げた。
「そんな」私は慌てて身体ごと彼女に向き直る。「貴女は何も悪くありません。ベリト様の普段の態度からすればそう思われても仕方のないことですし、そういう彼女をアルバさんたちは何年も見てきたのですから、これまでの印象をすぐに変えるのは難しいことだと思います。今日のことはそのことが分かっていながらも、あのような態度を取ってしまった私が悪いのです」
アルバさんが頭を振る。
「そんなことはないさ。私だってお前の立場ならそうする」
彼女は視線を下げると、目を細めて淡く微笑んだ。
何かに思いを馳せているようなその眼差しに、私は見覚えを感じた。
いつだっただろうと考えて、思い至る。
以前、彼女と礼拝堂の掃除をした時のことだと。
ユイ先生が描いた防音結界の紋様を見上げてる時、アルバさんは今と同じ顔をしていた。
「アルバさんは、ユイ先生のことを慕っているのですか」
思わず私がそう口にすると、アルバさんは目を見開いてこちらを見た。
「どうして、そう思うの」
彼女は表情を平常に戻してそう言ったけれど、その声には明らかに動揺が含まれていた。
触れてはいけないことだっただろうか、と心配になりながらも私は答える。
「以前、先生のお話をされている時にそのように感じたので。違っていたらすみません」
いや、と彼女は苦笑すると、私から視線を外して気恥ずかしそうに頬をかいた。
「違ってはいないよ」
「お気持ちは分かります。私もユイ先生のことはそのように思っていますから」
「うん。でも、フラウリアのそれとは違うと思う」
「もちろん私より長くここにおられるアルバさんの方が、その気持ちは強いかと思いますが」
アルバさんはこちらを見て頭を振った。
「思いの強さで、気持ちの差別化をするつもりはないよ。そうじゃなくてさ。なんて言うかな。そう思うようになった根元が違うっていうか」
今日、私も似たようなことを考えた気がする。
根元――感情の出所。
なぜ、そう感じるかの理由――。
アルバさんは再度、私から視線を外すと目を細めた。
「私さ、ユイ先生に命を助けてもらったんだ」
そう口にしてから彼女はすぐに「ううん」と軽く頭を振る。
「命だけじゃない。心も、救ってもらった」
心を――救われる。
その言葉にどうしてか私の胸は――心は大きく反応した、気がした。
「それまでユイ先生とは一度、それも偶然に会ったことがあるだけだった。その時にとてもよくはしてもらったけれど、それでも私からすれば親切な修道女、ただそれだけの人だった。でも、そのあと色々あって先生に救われて、私はあの人に親しみを感じるようになった。信頼して慕うようになった」
そこでアルバさんは自嘲するかのように微笑んだ。
「自分でも単純だなって思う。でも、そういうものだとも思うんだよね。それまで知らなかった人でも、親しくなかったとしても、誰かに救われるということはそれだけでその人を仰ぎたくような大きな力があるんだ。たとえそれが悪人だとしても」
もちろんユイ先生は善人そのものだけど、とアルバさんは付け加えて笑った。
そして、我に返ったかのように気恥ずかしそうな表情に変える。
「あー何か変なこと言っちゃったな。ごめん」
私は微笑んで頭を振った。
「いえ、貴女のことが知れて嬉しかったです」
これまでアルバさんは私の話を聞いてくれたり、周りのことを話してくれたりはしたけれど、自分のことを話すことはなかった。私が彼女のことで知っているのは以前、話しの流れで教えてくれた二年遅く修道院に入ったことだけだ。だから私は素直に嬉しかった。
「まぁ、あんまり話せるようなこともないしな」
彼女は気恥ずかしそうな微笑みを深めると「そろそろ寝よう」とベッドに上がった。
私も椅子から立ち上がり、自分のベッドに向かう。
「今日、楽しかったか?」
ベッドに上がると、アルバさんが確認するように訊いてきた。
「はい。とっても」
「そうか。それはよかった」
彼女は安心したかのようにそう口にすると、
「明日はロネのお守りがあるから覚悟しとけよ」
続けて冗談めかして言った。
それに私は笑う。
それから就寝の挨拶をして私達は床についた。
緩やかに意識が落ちていく中、私はアルバさんが話してくれたことを思い返していた。
誰かに救われるということは、それだけでその人を仰ぎたくような大きな力がある――そう彼女は言った。
それまで知らなくても、親しくなくても。
その人を信頼してしまうような、慕ってしまうような力が――。
まさに、私の心がベリト様に感じているのは、それではないだろうか。
彼女の声に安らぎを感じるのも、心地よく感じるのも。
彼女と共にいると楽しくて嬉しくて、幸せを感じてしまうのも、それから来ているのではないだろうか。
私は、ベリト様に救ってもらったことがある……?
命を――心を……?
そんなこと、ありえない。
ありえるはずがない。
彼女とはここに来るまで接点がないのだ。初対面なのだ。
それは以前も思ったことではないか。
……それなのに。
どうしてか以前のように、私はそれを強く否定することはできなかった。