大陸暦1975年――10 夜市7
あの日、夜市の警備協力の件で北区の守備隊詰所に訪れていたイルセルナは、その帰りに商店街のほうからベリトの家へと向かっていた。そして人並み以上の視力で見慣れた花屋を確認した丁度その時、路地から人が飛び出して来るのが見えた。
白い髪と白い修道服による全体的な白さで、一目でそれがフラウリアだと分かった。
彼女は一目散にイルセルナとは反対方向、修道院に続く道へと走り去っていった。
すぐに背を向けられたので表情を見ることはできなかったが、普段から穏やかな彼女が走っているというだけでも、いつもと様子が違うことだけは伝わってきた。
イルセルナはそのことを訝しみながらも、とりあえずベリトの元へと向かった。
そしてフラウリアのことをベリトに訊こうと思いながら扉を開けて目に飛び込んできたのが、執務机に手を置いて崩れ落ちるように跪いているベリトの姿だった。
それだけでイルセルナは全てを理解した。
「ベリト」
イルセルナは部屋に飛び込むと、ベリトの身体を抱きかかえた。彼女は抵抗する気力がないのか、力なく寄りかかってくる。
「……さわ……るな」
それでも遅れて拒絶だけは示してきた。しかしその声にはいつもの鋭さが微塵もない。
「そんなことを言っている場合じゃないでしょ」
イルセルナはそれを受け流しながら、そのままベリトをソファに運んで寝かせる。それから彼女の自宅から水と濡れタオルを手に戻ると、口元にコップを添えて水を飲ませてから額に濡れタオルを置いた。
ここまでベリトはされるがままだった。いつもの憎まれ口も皮肉も、その口からは一つも出てこない。それだけでも彼女が今、相当にしんどいことが分かる。
それでも寝かせる前よりは大分、顔色は良くなっていた。しかしまだ瞼を閉じられており、小さく短い呼吸を繰り返しながら右手で胸を掴むようにシャツを握っている。
彼女がこうなった原因を、イルセルナは分かっていた。
「ごめんなさい。私の所為だわ」
だから謝罪を口にして、そのまま目を伏せた。
こうなることを予測できなかったわけではない。むしろその可能性も踏まえた上で、あの時、自分の直感を押し通したのだ。嫌がっていたベリトの意思を無視してまで。だからこそ彼女には苦情でも文句でも、何を言われても仕方がないと思った。
「……違う」
しかし短い呼吸の合間に零れた力ない言葉は、イルセルナの予想に反するものだった。思わず伏せていた目を上げる。
ベリトはうっすらと瞼を開けていた。わずかに覗いた金色の瞳が、ぼんやりと天井を見つめている。
「……あいつの……所に行け」
イルセルナは一瞬、誰のことを言っているのか分からなかった。
けれどすぐに思い至る。フラウリアのことを言っているのだと。
「どうして」
走り去ったフラウリアのことはもちろん気にかかってはいた。
おそらく彼女が急いでいたのはユイを呼びに行ったからだ。触れてはいけないと言い付けられている自分では、ベリトに処置することが出来ないと考えて。
しかしユイは今ごろ、中央教会に出向していて修道院にはいない。そうなるとフラウリアがベリトのことで頼れるのはあとイルセルナだけになるのだが、彼女には自分への連絡方法が分からない。
だからきっと困っていることだろうと思う。
どうすることもできなくて、それでもどうにかしなければと思い悩んでさえもいるかもしれない。そう考えると、早くフラウリアの元に行ってやるべきなのはイルセルナも分かっていた。
だけど、そうだとしても今はベリトのほうが気がかりだった。
前例からしてこれ以上、体調が悪化するようなことはないとは思うが、流石にこんな状態の彼女を一人、置いていくことは出来ない。
それでもまだベリトの使用人がいるのなら任せようもあったが、生憎、今日は自宅にその姿が見当たらない。おそらく買物にでも出ているのだろう。
だからフラウリアの様子を見に行くにしてもベリトの体調が落ち着くか、もしくは使用人が戻るまでは何を言われてもここを離れるつもりはなかった。
そう心に決めていたイルセルナに、ベリトは天井を見つめたまま言った。
「……強く……追い出した。おそらく、気にして……泣いている」
……あの時、ベリトには他人のことに構う余裕などなかった。
内から溢れる感情に耐えるのに精一杯で、人のことを考える余裕などなかった。
だというのに彼女はそんな中にありながら、フラウリアのことを気にかけていた。
自分のことよりも、あの子の心配をしていた。
そんなベリトの想いを、イルセルナは無駄にはできなかった。
だからあの状態の彼女を置いてまでフラウリアの元に向かったのだ。
ベリトの思った通り、フラウリアは泣いていた。
しかし、それは強く追い出されたことを気にしてではない。
ベリトが心配で泣いていたのだ。
心配で、そして何も出来なかったことを悔やんであの子は涙を流していた……。
「貴女の言いたいことは分かってる」
正面を向いてイルセルナは言った。
「でしたら」
「それでも」
とユイの言葉を遮る。決して強く言ったわけではないが、遮った頃合いが鋭くなってしまった。だからか、わずかにたじろぐような気配を右横から感じる。
そのことに少し罪悪感を覚えながらも、イルセルナは噴水広場の隅へと目を向けた。
そこには先ほど見かけた時と変わらず、黒と白の人影がある。
ベンチに並んで座る、ベリトとフラウリアの姿が。
フラウリアの手には夜市の名物とも言える香草焼肉串が持たれていた。それを彼女は笑顔を浮かべて食べている。そして隣にいるベリトはというと先に食べきってしまったのか、横目で覗うようにフラウリアが食べる様子を見ていた。
その顔は端から見ればいつもの仏頂面なのかもしれない。
けれどイルセルナには、その顔が不思議と穏やかなものに見えた。
今まで見たことがないぐらいに、優しい顔をしているように思えた。
イルセルナはその光景を目に焼き付けるように瞼を閉じると、ユイへと向き直る。
「それでも、もう少し様子を見させて」
ユイは少し目を見開いてから視線を下げた。受け入れるかどうか迷っているのだ。
そんな彼女にイルセルナはもう一押しする。
「貴女も、あの子の顔が曇るのは見たくないでしょう?」
その言葉にユイは面を食らったかのように視線を上げた。そして彼女にしては珍しく、あからさまに眉を寄せる。
「その言い方は卑怯です」
全くだ、とイルセルナは思った。
本当に卑怯にも程があると。
けれど、それが効くのは何もユイだけではない。
自分もそう――みんなそうなのだ。
ユイもイルセルナもベリトでさえも、あの子の悲しむ顔は見たくないと思っている。
あの姿を見てしまっているからこそ、あの子には笑っていて欲しいと願っている。
そして現に今、あの子は笑っているのだ。
ベリトの隣で楽しそうに笑顔を浮かべているのだ。
そうなってしまってはもう、誰にも止めることはできない。
フラウリアが自らの意思でベリトに関わりたいと思っている以上、自分たちにも、ベリトにすらも止めることはできない。
イルセルナは何も弁明しなかった。言わずともユイには分かるはずだから。
ユイは、じっ、とイルセルナを見据えていたが、やがて諦めたかのように吐息を漏らした。
「分かりました。ただその代わりまた同じことがあった場合は必ず、私の診察を受けるようにと彼女に勧めてください」
「分かったわ」イルセルナは頷く。「ごめんね。わがままを言って」
心からそう言うと、ユイは仕方がないとでもいうように淡く苦笑した。
「慣れてますから」
慣れさせてしまうぐらいにわがままを言ってきただろうかと考えて、すぐに思い当たる節があれこれ浮かんで、イルセルナは思わず苦笑いを浮かべた。
――反抗期だった私に一番振り回されたのは彼女だったな。
そう、今さらながらに気づき、密やかに深く反省するのだった。




