大陸暦1975年――10 夜市6
「相変わらず、目が良いですね」
隣にやって来たユイが、目を細めながら感心するように言った。
彼女の言う通り、イルセルナは視力が良かった。それも普通にではなく異常にだ。正式に計測したことがないので数値までは分からないが、高台から見える人々の顔の特徴が一人一人、事細かに説明出来るぐらいの視力はある。
それは人が言うには己の特異な体質、マドリックであることが関係しているらしいが、そのことについてイルセルナはよく知らないし興味もない。
視力の良さ自体も、余裕がなかった子供の頃は疎ましいものだと思っていた。どこへ行っても、遠巻きから出来損ないの王族を見る人の顔が鮮明に見えてしまうから。
それでも修道院を卒院する頃には仕方のないものだと捉えられるようになり、今では特技だと思えるぐらいには受け入れられている。実際、こういう場面でも双魔鏡――望遠魔道具――を使わずに済むので、目立たなくて便利ではあった。
「まぁ、一つぐらいは取り柄がないとね」
イルセルナが謙遜してみせると、
「貴女は取り柄ばかりですよ」
ユイは真面目な顔でそう返してきた。
彼女は稀に冗談は言うものの、お世辞を言うような人間ではない。それを知っているからこそイルセルナは、むう、と顔をしかめてしまう。不快だったからではない。照れ隠しでだ。
ユイはイルセルナの反応を見て淡く笑うと、商店街の方を向いた。何だか彼女にしてやられたような気持ちになりながら、イルセルナも商店街へと視線を戻す。
そして、そういえば、と思い出し不審者の探索ついでに友人の姿を探し始めた。
「それにしても、まさかベリトが夜市に来るなんてねえ」
先日ユイからそのことを聞いた時は大層、驚いた。彼女がその手の冗談を言わないと分かりながらも「嘘でしょ?」と思わず訊き返してしまうぐらいには衝撃的なことだった。
「昔、私が誘った時には『ガキか』って鼻で笑ってたのに」
それも断られるの前提で誘ったようなものだ。
ただでさえ常日頃から外に出たがらないベリトが、人が多い祭りになんか行きたがるわけがないことは分かっていたから。
それでもイルセルナは予定が空いている年には必ず、ベリトを誘い続けた。そしていつもの如く断られれば露店の食べ物を土産に彼女の元を訪れ、祭りの喧騒を遠くに聞きながらそれを二人で食べて過ごした。そうしていたのは少しでもベリトに祭りの雰囲気を味わってほしかったから――人の営みなど自分には関係ないものだと線引きをして欲しくはなかったからだ。
ベリトは祭りそのものに関しては全く興味が無いわけではなかった。イルセルナが夜市のことを話せば、所々に反応が見られたのがその証拠だろう。
そういう時、ベリトは決まって遠い目をしていた。
そのことについて彼女が何も語ることはなかったが、その目でベリトが何を見ているのかイルセルナには想像がついた。
おそらく昔を思い出していたのだ。
故郷で祭りに行ったときのことを。
彼女がまだ、人の営みの中で過ごしていた。
偽りの幸せの中にあった子供時代のことを――。
ベリトが人を遠ざけるのは、あの頃の体験によるものが大きいとイルセルナは考えている。それが彼女が殻に閉じこもる原因に、心的外傷――心の傷になってしまっているのだと。
その気持ちはイルセルナにもよく分かる。
自分もベリトと同じく、普通の人間の枠から外れている身ではあるから。
もちろん自分と彼女では生まれや状況に大きな違いはあるが、それでも普通の人間からすれば、どちらも異質であることには変わりない。そこには大きな分類は存在せず、自分と違うものを見る人の目にも大差はないものだ。
だからベリトがその生まれ持った能力が故に、どのような目を向けられて生きてきたのかイルセルナには容易に想像ができる。自分のことのように理解できてしまう。
だからこそ嬉しく思った。
そんなベリトが自ら祭りに、人が多い場所に行くことを選択したことを。
これまで殻に閉じこもってばかりだった彼女が、その一歩を踏み出したことを。
たとえそれがあの子の誘いを断れなかったことによる産物だとしても、何かが変わる切っ掛けとは得てしてそういうものだということは、イルセルナも身を持って知っていたから――。
「今度これをネタにして弄ってやるんだから」
イルセルナは冗談交じりで息巻いた。
私の誘いは断っておいてあの子となら行くんだ――そう拗ねるように言ったら無愛想な友人はどのような反応を見せるだろうか。今から実に楽しみだ。
そんなことを考えながら探索を続けていると、ふと見覚えがある色が視界の端に入ってきた。イルセルナはその場所、噴水広場の奥隅にあるベンチへと目を向ける。
そこには周囲の風景から切り取られたように浮いている、黒と白の人影があった。
――あんなところに。
イルセルナが思わず目を細めると、
「どうして許可しようと思ったのですか」
と、ユイが唐突に訊いてきた。
横に顔を向ければ、いつの間にか彼女が真剣な眼差しでこちらを見ている。
「あの子が、ベリトの元へ行くことを」
流石にもう見過ごせないか――イルセルナは内心、苦笑した。
イルセルナがフラウリアの申し出を許可したとき、ユイは『分かりました。そのようにします』とだけ言って、それ以上、何も訊いてくることはなかった。
それが自分の決定を尊重してくれてのことだということは、イルセルナにも分かっていた。
そしてユイが本心では反対していることも。
それはここに移り住んだ頃のベリトを診ている彼女ならば当然のことだった。
それでもユイは静観してくれていた。何も訊かず、何も言わなかった。それが今になって出来なくなったのは、まさに見過ごせなくなったからだろう。
先日ベリトが体調を崩してしまったから。
「あの子なら、薬になってくれるかなって」
イルセルナがそう答えると、ユイはわずかながらに眉を寄せた。
「毒になったからこそ、彼女はここにいるのでしょう? 先日のことだって」
やはり、とイルセルナは納得しながら先日のことを思い返した。