大陸暦1975年――01 人嫌いの治療士2
午前九時。朝食後、アルバさんに修道院を案内して頂いた私は、そのまま彼女に連れられ修道院東棟二階の一室へと来ていた。
教室であるこの部屋には私とアルバさん、そしてロネさんとリリーさんの他に四人の見習い修道女の姿がある。教室は後方に向けて階段のように段々となっており、私とアルバさんは教室の一番後ろの席に、ロネさんとリリーさんは一番前の席に、そして他の四人は二組づつ中程の空いた席に座っていた。
これからここでは見習い修道女五年生向けの授業がある。
私がこの修道院で授業に参加するのは今日が初めてだ。いや、それどころか修道院に入ってからの記憶がない自分にとっては、人生で初めての授業とも言えるかもしれない。
そんな私が五年生向けの授業を受けて到底理解できるとは思えないのだけれど、受けているうちに何かを思い出すのではないかという期待と、授業の雰囲気に慣れるための見学だと思えばいいから、とアルバさんに諭されたのもあり、参加させて頂くことになったのだった。
アルバさんと話していると、少しして、部屋の前方にある扉から修道女様が現われた。それを合図に雑談の声が止まる。修道女様は教壇に立ち確認するように部屋を軽く見渡すと、最後にこちらを見て微笑んで頷いた。一拍遅れて挨拶をしてくださっているのだと気づき、慌てて小さく礼を返す。初めて見る人だけれど、おそらくユイ先生から自分の話を聞いているのだろう。
「揃っているようですね。では、始めましょうか」
修道女様は教本を手に解説を始めた。
アルバさんによると今日の授業は治療学らしい。
治療学は水学・星学・人体学を含めた、治療魔法に関する知識と応用を扱う総合学問だ。この学問は治療士を志す者にとっては必修の科目であり、つまりこの授業を受けている人間はもれなく治療士の素養を持っているということになる。それはここにいる人達だけでなく、この修道院にいる見習い全員がそうらしい。
それはこのルコラ修道院が、ここ星都に二つしかない星教の治療士育成を目的とした場所だからだという。そして以前、私がいた修道院もその二つのうちの一つなのだと、つい先ほどアルバさんが教えてくださった。
それを聞いた時、私の中に特に驚きはなかった。以前いた修道院のことは何も覚えてはいないけれど、自分に治療士の素養があることと、そのことから修道院に入れたのだということは覚えていたから。
私の素養を見出してくださったのは、壁区に訪れていた修道士様だった。
あの日のことは、昨日のことのように今でもよく覚えている。
修道士様は護衛の星堂騎士と共に孤児が集まる路地に現われると、みんなにお菓子を配り始めた。そしてお菓子を受け取った子供に、掌の大きさの石がはめ込まれた道具に触れるようお願いをしてきた。
子供達の中には修道士様に警戒を示す子もいた。それは当然だった。孤児は人さらいの標的になることがしばしばあり、その中には星教会を語る者もいたから。でも殆どの子はお菓子に釣られ、何の警戒もなくそれに触れていた。
実際、修道士様は本物で、その道具も危険なものではなかった。その道具は魔法の素養を測る魔道具で、修道士様は子供達の素養を調べていたのだから。
何人もの子供がそれに触れたあと、私も回りの子に勧められるがままにお菓子を頂き、その石に触れた。するとこれまで何の反応も示さなかった石がキラキラと輝き、修道士様は驚きを含めた微笑みを浮かべて『貴女には神から与えられた、人を癒すことができる素晴らしい力があります』と言った。
それは今では稀少となりかけている高位治療士の素養、神星魔法を扱える素養のことだった。
そうして私は修道士様の導きで、修道院に入れることになった。
それが日々、衣食住に困る孤児にとって幸運すぎる出来事だということは、まだ十歳の子供であった自分も強く自覚していた。
だから私は自分に誓っていた。神から与えられたこの機会に驕ることなく、精一杯に勉強して、この力を誰かを助けるために使おうと。
そしておそらく自分の性格からして、その誓いは守られていただろうと思う。
でも――……。
「今日はここまでにしましょう」修道女様は教本を閉じて言った。「前回の課題は、いつもどおり担当に提出しておいてください」
授業終わりの合図に、回りの人達が一斉に立ち上がった。私も慌ててそれに続く。
「ありがとうございました」
修道女様が部屋を後にされると、場の空気が和らいだ気がした。
とは言っても修道女様はお優しそうな方だったので授業中も特段、空気が張り詰めていたわけではない。それでもやはり引き締まった雰囲気にはなっていたのか、私も緊張が解けた気がしてその場に座り直した。
自然と息を吐くと、隣で授業を受けていたアルバさんが声をかけてくれた。
「疲れたのか?」
「はい。少し」
「じっと長いこと座ってるの久しぶりだもんな」
「そうですね」
アルバさんは隣に座り直すと、こちらに身体を向けて言った。
「それでどうだった? なんか、覚えてた?」
それは遠慮がちで気遣うような口調だった。
おそらく私のことを考えれば訊くべきではないと思いつつも、世話役として私の状況を把握しようとしてくれているのだろう。
……正直なところ、覚えていることは何もなかった。
授業を聞いていても、何も分からなかったし、何も思い出せなかった。
「恥ずかしながら。やはり何も覚えていないようです」
私は微笑んでそう答える。本当はそういう気分ではなかったけれど、彼女を心配させたくなかったので努めて心情を出さないよう装った。でもそれは失敗していたのかもしれない。アルバさんは顔から微笑みを消すと、真剣な顔をして言った。
「別に恥ずかしくないだろ」
その口調は、彼女にしては珍しく強いものだった。
私は一瞬、自分の言動が彼女を怒らせてしまったと焦った。でも続く言葉でそれは勘違いだと分かった。
「事故に遭ったのも、記憶を無くしたのも、フラウリアの所為じゃないんだから」
アルバさんはいつも通り、真剣に私のことを気遣ってくださっていたのだ。
その心遣いは素直に嬉しかった。でも私の気持ちは、実のところそれでは解消しないぐらいに沈んでいた。それでもそのことを彼女に話すつもりはなかった。信用していなかったわけではない。ただこれ以上、心配をかけたくなかったからだ。
彼女を安心させるためには何と返すべきかと私が迷っていると、アルバさんが先に口を開いた。
「フラウリアの考えてることは分かる。覚えてないことで、これまで勉強したことが全て無駄になったって思ってるんだろ」
心情を見透かされ、私は驚いた。
正に彼女の言う通りだった。
この授業を受ける前、私は何かを思い出すのではないかと期待していた。
ただしそれは手放しの期待ではなく、叶わないこと前提での期待だ。
私は今日まで、失われた五年間のことを何一つ思い出せていなかった。
それなのに勉強の記憶だけを思い出すなんて、そんな都合のいいことなど起こりはしないと、私は確かにそう思っていた。
でも、そんなことを思いながらも、心の何処かでは期待していたのだ。
記憶がないと言っても、実は場所が分からなくなっているだけではないか、それはふとした切っ掛けで見つかるのではないかと。
結局それは、やはり叶うことのない期待だった。
私の中には何一つ、残されてはいなかった。
記憶がないこと自体はもう受け入れてはいるけれど、だとしても五年間の積み重ねが、きっと努力しただろうその全てが、水の泡となってしまっている事実には流石に落胆と寂しさを感じられずにはいられなかった。
「……はい」
気づかれているのなら隠す必要もないと、私は素直にそれを認めた。
するとアルバさんはすぐに、しかも意外な言葉で返してきた。
「私はそうは思わない」
私は驚いた。
これまでアルバさんはいつも、私の感情に寄り添い同調してくださっていた。
たとえそれが彼女には理解できないと思われる感情でも、親身に理解を示そうとしてくださった。
そんな彼女が私に対して、はっきりと否定を表わしたのはこれが初めてだった。
「私さ、思うんだよね。記憶と精神――ええと魂とか心って言うのか? そういうのは別なんじゃないかって」
アルバさんは息を吸ってから続けて言った。
「私は最初、お前に十歳からの記憶がないって知ったとき、じゃあ中身が十歳に戻ってるんだなって思ってたんだ。だけど毎日お前と話しているうちに、それは違うと分かった。だってお前の受け答えはどう見ても、十歳のそれじゃなかったから。もちろんそれはお前が子供のころから大人びていたっていう可能性もあるけれど、でもその場合はやっぱり分かると思うんだよ。子供が背伸びしてるなみたい感じがさ。でもお前からは一切それを感じなかった。
だから思ったんだよ。それってこれまでの経験が記憶以外の場所、魂でも心にでも残ってるからじゃないかって。それこそが今のお前を形作ってるんじゃないかって」
彼女の言うことは、当を得ている気がした。
確かに五年の記憶を失った私の中身は、本来なら記憶年齢の十歳になっていてもおかしくはない。
でも私は目覚めた時から、自分が十歳の子供とは全く思っていなかった。
だから自分の年齢を教えられてもそこだけはすんなりと受け入れられていたし、それどころか今思えば、教えられる前から自分の実年齢を無意識に認識していたように思う。
それはアルバさんの言う、私の心が知っていたからではないだろうか。
記憶が十歳を示していても、私は十五年の歳月を生きているのだと心が覚えていたからではないだろうか。
それならば、目覚めたあとしばらく不安定だったことも説明がつく気がする。
あの時の私はおそらく、記憶年齢と身体年齢との食い違いが、そして記憶年齢と心の年齢の食い違いをどう整理したらいいのか分からなかったのだ。失われた記憶のことで取り乱していたのも、おそらくそこに起因するものなのだろうと思う。
そして今そのことに触れられても平常でいられるようになったのは、私の中でそれらの要素が整理され、事実として受け入れることができたからなのかもしれない。
「それはきっと勉強も同じだよ。確かに勉強で得た知識は失われているのかもしれないけど、でもお前がそれを学んだという経験はきっとお前の中に残ってる。
だからさ、これまでの努力は決して無駄じゃないって私は思うんだ」
――これまでの努力は決して無駄じゃない
そうか、と思った。そうなのだと。
私は今まで、五年という月日の全てを失ったのだと思っていた。
残されたのは成長したこの身体だけで、後は私の中から消えてなくなったのだと。
でもそれは違っていた。
私の中にはまだ残っていた。
この五年を生きた心が。
私が記憶を失ったとしても、比喩ではなく本当の意味で私の中から記憶が無くなってしまっているのだとしても、私にはまだこの心が残っている。
だからこそ私は今、私でいる。
十歳ではない十五歳の私でいられている。
この心がある限り、失われた五年は決して無駄ではない――。
そのことに気づかされ、私の中に開放感にも似た安心が広がった。
知らずに気負っていたものが解消されたような、そんな感覚を覚える。
そして自分のことでもないのに、ここまでアルバさんが深く考えてくださっていたことに胸が熱くなった。
心打たれていた私は、しばらく言葉を返すことができなかった。
すると彼女はそれまで真剣だった面持ちを崩して、苦笑いを浮かべた。
「ごめん。何か勝手なこと言って。つまりはさ、覚えてないならまた勉強すればいいってことを言いたくて。いや、それもなんか勝手だな」
苦笑いを深めるアルバさんに、私は「追いつけるでしょうか」と問うてみた。すると彼女は安心したように表情を明るくした。
「それは大丈夫だって。私は二年遅くここに入ったけど、初期のは基礎ばかりですぐに取り戻せたよ」
「そうだったのですか」
以前ロネさんが十歳のころからこの修道院にいると言っていたので――もちろんリリーさんも――だから私はてっきりアルバさんも、そうなのだと思っていた。
「うん。だから頑張ろうよ。私も付き合うから。自由時間でも部屋でもいつでもさ」
「アルバさん……ありがとうございます。本当に貴女にはお世話になりっぱなしで」
「だから気にするなって。あぁでも、神星魔法の勉強についてはユイ先生に相談しないとな。私もリリーもロネも水魔法で教えられないから。いや、元よりロネには無理だけど」
あいつが教えられるほうだし、とアルバさんは笑う。私も自然と微笑む。
「さてと、課題を出さないとな」
アルバさんは勉強道具をまとめると、私に目配せして部屋の前方へと向かった。私もあとに続く。
部屋の一番前の長机には、机に上体を預けて伏せているロネさんと、その横にリリーさんがいた。
「ほら、ロネ」
アルバさんはそう言って、机に伏せているロネさんの後頭部に課題の用紙と思われるものを乗せた。そこで先ほど修道女様が口にした担当は彼女なのだと気づく。
ロネさんは机から顔を上げないまま用紙を受け取ると、気だるそうな動作で横に置いた。その様子は、いつも元気な彼女にしては何だかおかしい。
「ロネさん、お具合でも悪いのですか?」
側にいたリリーさんに訊ねると、彼女は「お役目を嫌がってるんです」と答えた。
「お役目」
「授業でやった課題を、修道院近くの治療士様に持っていくお役目です。その先生が採点などをしてくださるんです」
「え、先ほどの先生ではなくて、ですか」
「はい。先ほどの先生は言うなれば教える担当で、この教材と課題は外にいる治療士様が作っています。そして課題の善し悪し――私達生徒達の理解度によって、個別の課題も作ってくださるのです」
「細かく考えてくださっているのですね。……それでどうしてお届けするのが嫌なのですか?」
すると机に顔を伏せていたロネさんが、顔だけ横に向けて言った。
「だってぇ、クロ先生、怖いんだもん」
クロ先生、という変わった名前も気になったけれど。
「怖い方なのですか?」
私はもっと気になったそちらを先に訊ねた。
「まぁ、愛想はないかな」それに答えてくださったのはアルバさんだった。「言葉使いも端的だし冷たい感じはするよね」
「そうですね」続けてリリーさんが言った。「だから彼女だけでなく殆どの女の子達は怖がっているみたいです。私は何とも思いませんが」
「ならリリーが行ってよー」
「担当が責任持って行なうべきです」
きっぱりと言われ、ロネさんは再び机に顔を伏せてしまった。
その姿がいじけてしまった子犬のようで、もしくは大型犬に吠えられて脅える子犬のようで可哀想な気持ちになる。
「ほら、置いてくるだけだろ」
とアルバさんが突っつくも、ロネさんは唸るだけで顔を上げない。
アルバさんとリリーさんの話しぶりから、その治療士様は怖くはあるけれど何かをしてくることはないように感じる。そもそも本当に危険な人物ならば二人は止めるだろうし、それ以前にユイ先生が見習い修道女に届けさせたりはしないはずだ。
だけど危険ではないとしても、このまま嫌がるロネさんを送り出すのも何だか心が痛い。…………それならば。
「あの。でしたら私が代わりにお届けしましょうか?」
そう言った途端、ロネさんが、がばっ、と顔を上げた。
「ほんと!」
顔一杯に嬉しさが現れていて、こちらも釣られて笑顔になってしまう。
「はい」
「やったー! フラウ大好き! じゃ、地図描いてあげる!」
「ロネ」
叱る体制を見せるリリーさんを、私は手で制した。
「リリーさん、いいのです。ユイ先生にもなるべく身体を動かすようにと言われていますし。歩けば運動にもなると思いますから」
「ですが」
「どうかやらせてください。起き上がれない間、お二人はもちろん、ロネさんにもお世話になりましたから、少しでもお返しさせて頂きたいのです」
「こいつ勝手に見舞いにきては、自分の好きなことを喋ってただけだぞ」
苦笑するアルバさんに、確かに、と私も内心苦笑する。
ロネさんが初めて見舞いに来てくださったのは、アルバさんが部屋を離れていて、まだ私もベッドからあまり起き上がれない時だった。
彼女は突然部屋に現われたかと思うと、自己紹介をして今日あったことや自分が好きなことについて話し始めた。私は意表を突かれながらもなすがままに話を聞いて、彼女は満足して嵐のように去って行った。これは後で聞いた話だけれど、その日ロネさんはリリーさんの目を掻い潜り、まだ入っては駄目と言われていた私とアルバさんの部屋に来たらしかった。
それからロネさんは度々、最初と同じ行動を繰り返した。
そんな彼女に最初のころは戸惑いを感じていた私だったけれど、でもその気持ちは次第に薄れ、最後には彼女の来訪を楽しみにするようになった。
ロネさんの話はいつも何てことのない素朴な内容が多かった。
でも、それを本当に楽しそうに話してくださるから、それがかえって乱れていた私の心に良かったように思う。
「元気が貰えましたよ」
私は本心でそう口にすると、ロネさんは右手を掲げて言った。
「元気をあげましたー」
「まぁ、元気だけがお前の取り柄だからな」
だけが、を強調して言ったアルバさんに、ロネさんは「そうだよ!」と笑う。
「あーいや、素直さもだったかな」
アルバさんにそう投げかけられ、私とリリーさんは笑みを返した。




