大陸暦1975年――10 夜市2
商店街の入口からはずっと食べ物の露店が並んでいた。四方八方から調理音といい匂いが届いてくる。夕食は摂ってきたのでお腹は空いていないけれど、それでも美味しそうな音と匂いに食欲が刺激されて、今にもお腹が鳴りそうになる。
こういう体験は初めてのことだった。昔はお腹いっぱいに食べられたのは配給と施しの時ぐらいしかなかったから。だからお腹が満たされているのに空腹を感じるなんて何とも贅沢で、だけどとても幸せなことのように思えた。
そうして露店を眺めながら歩いていると、あるところを境にお客さんが幅広い年齢から子供へと変化した。
どうやらここからは遊びの露店区域になっているらしい。
どんなものがあるのだろうと、大通り左側の露店に近づく。そこから眺めて歩いて一つの露店が目に止まった。
そこでは子供達が、露店に間隔を開けて並べ置かれている置物に向かって、各々いろんなやり方で輪っかを投げている。そして輪っかの中に置物が入ると歓声を上げたり、全てを投げ終わった子供の中には店主さんから何かを受け取っている子もいた。
そのとき店主さんが「三本の景品ね」と口にしていることから、置物に輪っかが入った本数によって景品が貰える遊びだということが分かった。
このような遊びを見たのが初めてだった私は、物珍しくてつい立ち止まってしまう。
置物は小さく輪っかはお皿ぐらいの大きさがあった。一見すると入れるのは簡単そうに見える。だけど投擲場所が離れているので、なかなかに狙いを定めるのが難しいようだ。
単純だけれどよく考えられているんだなあと感心しながら、子供達が次々と輪っかを投げる様子を眺める。
「やりたいのか」
するとふいにベリト様にそう訊かれた。
「え……!? いえ、別に」
私は何だか気恥ずかしくなって、あたふたと手を振りながら咄嗟に否定しまう。けれどこれでは誰の目から見ても興味があるのがばればれだった。
そんな私をベリト様は半眼で見たかと思うと、何も言わず露店へとつかつか歩き出した。露店の店主さんが彼女の接近に気付き、人の良さそうな笑顔を向ける。
「一回だ」
ベリト様は店主さんから距離を開けて立ち止まると、いつの間に取り出していたのか硬貨を親指で弾いた。回転しながら舞うそれを店主さんは器用にも、ぱしっ、と空中で受け取る。
「あいよ!」
店主さんから輪っかを受け取り戻ってきた彼女は、私にそれを差し出してきた。
ここまでの成り行きを気持ち呆然と見守っていた私は、ベリト様の顔と差し出された輪っかを交互に見てしまう。
「ほら」
そんな私に彼女は受け取るよう催促をしてきた。
「でも、お金」
私は彼女の心遣いよりも先に、それが気になった。誰かが自分のためにお金を使ってくれるなんて経験、初めてのことだったから。だからこういう好意をそのまま素直に受け取っていいものか迷った。
「いいから」
そんな私にベリト様は再度、輪っかを差し出してきた。眉を寄せたその顔は『変な遠慮はするな』と言っているようにも見える。それが本当でも思い込みでも、私が躊躇すればするほどに彼女の立場がなくなるのは間違いない気がした。
だから私は戸惑いつつもそれを受け取った。そして五本の輪っかを手に露店の端っこへと移動する。よく見れば回りの子供達は自分よりも年下の子ばかりだった。そのことに少し恥じらいを感じながらも、子供達を見習って投げてみる。
だけど輪っかは次々とあらぬところに飛んでった。
「お嬢ちゃん残念」
苦笑いを浮かべた店主さんにすかさず硬貨が飛んでくる。
「あいよ。もう一回ね」
それをまた彼は器用に受け取ると、今度は私に直接、輪っかを差し出してきた。
一回のみならず二回もいいのだろうか、とためらいながらも、店主さんを待たせるわけにもいかないのでとりあえずそれを受け取ってからベリト様を見る。
「ベリト様」
「一個ぐらい入れろ」
少し離れた場所で腕を組んで立っている彼女は、何気ない様子でそう言った。
期待されているというわけでもなさそうだけれど、そう言われては一個ぐらい入れなければという気持ちになってくる。お金を払って頂いているのだから尚更に。
私は子供達が投げる姿を観察してから再度、挑んだ。
だけどやはり結果は同じだった。むしろ先ほどよりも飛んでいく輪っかが迷走している気がする。力んでいたのだろうか。それともそれ以前に投擲の才能がないのだろうか。
自分の不甲斐なさにがっくりと肩を落とすと、見かねたのか近くの子供達が声をかけてきてくれた。
「姉ちゃん、めっちゃ下手だな」
「二回やって一つも入れられない人、初めてみたかも」
「才能ないなあ」
……子供は純粋で可愛くて、時より手厳しい。
容赦ない言葉を浴びせられた私は、思わず泣きつくようにベリト様を見てしまう。
そんな私を見てベリト様は鼻から息を漏らすと、店主さんに近づき輪っかを持って戻ってきた。そして私の横に並んで立つ。
「初心者は横投げより下からのほうがいい」
彼女はそう言うと、下からすくうように輪っかを投げた。輪っかは弧を描き、見事、一発で置物に入る。近くの子供達から「おおー」と声が上がった。
「ほら、やってみろ」
ベリト様から残りの輪っかを受け取ると、見よう見まねで下から投げてみた。
一本、二本、三本、そして――。
「あっ」
四本目でようやく、置物が輪っかの中に入った。
「やりました。ベリト様」
ベリト様を見ると、彼女は小さく頷いてくれた。その顔はいつも通りの無表情だけれど、それでも私には『よかったな』と言ってくれているように見えた。
そのことを嬉しく思っていると、近くの子供達も見守ってくれていたのか、ぱちぱち、と労いの拍手を送ってくれる。
「やったな姉ちゃん」
「私も下から投げてみよー」
「でも、横投げのほうがかっこよくね」
子供達は口々にそう言って、輪投げへと戻っていく。
それを微笑ましく見ていたら、店主さんが近寄ってきて何かを差し出してきた。
「あいよ。二本の景品ね」
私は手を出してそれを受け取る。それは硬貨ぐらいの小さな蛙の置物だった。
どうして蛙……? と思っていると、ベリト様が「行くぞ」と言って歩き出す。私は店主さんにお礼を言ってから、彼女を慌てて追いかけた。そして隣に並んでから外套のポケットに手を入れる。そこにはユイ先生から頂いたお小遣いが入れてあった。
「ベリト様。お金を」
彼女が好意でお金を出してくれたとしても、流石に全てを奢って頂けるのは気が引けた。だから私は少しでも払おうと思って、ポケットの中にある硬貨入れから硬貨を探る。
「いらん」
だけどそれを取り出す前にそう言われてしまった。
「ですが」
「取って置け。明日も行くんだろ」
それは、そうだけれど。
ベリト様はこれで話しは終わりだとでも言うように口を閉じていた。これでは私が何を言っても受け取って貰えない気がする。それならそのお心遣いを有難く頂くことにした。
「ありがとうございます」
私の感謝を受け取るかのようにベリト様は横目でこちらを見た。だけどまたすぐに正面を向く。
私は彼女から視線を下ろすと手の中の蛙の置物を見た。その造形は実際の蛙よりは簡略化されていて可愛らしい。
それにしても。
「蛙なのは何か意味があるのでしょうか」
先ほど抱いた素朴な疑問に、ベリト様はすぐに答えてくれた。
「ガ――子供が好きだからだろ」
確かにと思う。壁区でも雨期になると子供達は蛙を捕まえるのに夢中だった。私も葉っぱに乗った蛙を眺めたことがある。
「それと縁起ものってのもある。だからよく祭りの景品になってる」
縁起もの。それは知らなかった。
どういうご利益があるのだろう、と思ってふと気づく。
よく祭りの景品になっていると、どうしてベリト様は知っているのだろう。
そういえば輪投げも手慣れているようだったし、以前にもお祭りに来たことがあるのだろうか。ここではなくとも、そう、たとえば子供のころにどこかのお祭りに。
「ベリト様、輪投げお上手でしたけどされたことあったのですか?」
だけどそのまま訊くのは何となく憚られたので、私はそう訊いてみた。
ベリト様は「まぁ」と呟くと、正面を向いたまま切れ長の目を細めた。
「昔にな」
それは遠い記憶を見るかのような、どこか郷愁を帯びた眼差しだった。




