大陸暦1975年――09 関係の変化
「おはようございます。ベリト様」
いつものように挨拶をした口からは、短い間隔で息が漏れた。
どうやら少し小走りしただけでも息が切れてしまったらしい。もともと運動神経はよくないにしても昔はこれぐらいで疲れることはなかったのだけれど……事故で寝込んでいたことで体力が落ちているのだろうか。もしくはそれ以前に記憶のない五年で運動不足になっていたとか。修道院の生活では、目一杯に身体全体を動かすことはそう多くはないから。
あるいは最近、自由時間に座って勉強ばかりしているのがいけないのかもしれない――とあれこれ考えていると、私の挨拶に少し遅れる形で「あぁ」という言葉が返ってきた。
今日ベリト様は執務机に座って、何やら書類を読んでいるようだった。返事が遅れたのは切りが悪かったからだろう。
「すみません。少し遅れました」
「別に、時間は決まっていない」
そう言ってベリト様は椅子から立ち上がると、私に譲るように横に移動した。
「今日の課題です」
私は課題を彼女に手渡してから椅子に座る。そして持ってきた教本を執務机の上に開いた。するとすぐに左横からベリト様が右手を伸ばしてきた。彼女は、ぱらぱらと円滑にページをめくり始める。
私は最初のころから今までしていたように、後ろに身を引いてはいなかった。だから伸ばされたベリト様の腕は、今にも私の身体と接触しそうな位置にある。それでも彼女は私を避けようとはしなかった。
「今日はここからだ。ここは特に説明することはない。終わったらこれを解け」
彼女は簡潔にそう言うと、執務机に置いてある用紙を指し示した。それから「分からないところがあったら言え」とだけ口にして、いつもの人ひとり分の間隔を開けて置かれている椅子に座る。そして足を組んでから、先ほど見ていた書類の続きを読み始めた。
そこまで見届けてから私は執務机に向かう。
――あの日、ベリト様は私に触れることを許してくださった。
ただし、それはあくまで彼女の体調が悪くなった時だけ、という条件付きのものだった。
それでもそれを聞いた時、私は素直に喜んだ。たとえ限られた条件下であっても、私が一番そうしたい場面で彼女に触れることができるようになったのだから。
だけど、そのあと修道院に戻り、喜んでいた気持ちが落ち着いてくると、今度は申し訳ない気持ちが襲ってきた。
あの状況下では、ベリト様も許可せざる得なかっただろうと思ったからだ。私の頑固さに押し負けた結果、本心からではなく仕方なく許したのだろうと。
そうと分かりながら理不尽とも言える要求をしたのは自分なのだから今さらと言えばそうなのだけれど、それでももっと他にやりようがあったのではないかと私は反省と後悔をしていた。
でも、必ずしもそうではないと気づいたのは次の授業の日、先ほどのようにベリト様が教本に手を伸ばした時のことだった。
めくりやすいようにと私はいつものように身を引こうとした。けれどその前に彼女は円滑にページをめくり始めた。それに違和感を覚えた私は彼女の腕を見て、そして気づいたのだ。
以前は私を避けるように不自然に曲げていた腕が真っ直ぐ伸びていたことを。
私は驚いてベリト様の顔を覗き見た。先日の出来事があってのその日だったので、彼女の様子は最初から少しぎこちないものではあったけれど、それでも表情には気負ったものが見受けられなかった。
そのことからベリト様はそれを意図してではなく、自然と行なっているのだと分かった。
それは彼女の気持ちに変化があったからではないだろうか。
もしかしたら先日のことを切っ掛けに、少しでも私に心を開いてくださった結果なのかもしれない。
自分に都合のいい勝手な憶測ではあるけれど、それでも、その可能性があるだけでも私は嬉しかった。
私は思わず頬を上げながら、教本を読み始める。
集中集中、と胸中で唱えながら読み進める。
少ししてベリト様が椅子から立ち上がる気配がした。彼女は執務机の前を横切り作業机へと移動する。私はそれを視線だけで見届けると再度、教本へと視線を落とした。
その時だった。ふいに何かの音が耳に届いた。
私は音が聞こえた方向、開け放たれた窓に目を向ける。
穏やかな風に運ばれるかのように聞こえてくるそれは、喧騒のようなものだった。とはいっても本当に微かに聞こえるぐらいなので、煩いとか賑やかというほどのものではない。
大通りか、それともその先にあるという商店街の音だろうか。
けれど、いずれにしてもそういう音が聞こえてくるのは珍しいことだった。普段はここまで大通りの音が届くことは滅多にないから。それがこの場所が大通りから入ったところにあるからなのか、それとも建物の配置の影響なのかは分からないけれど、ともかくにもここはいつも静かすぎるぐらいに静かな場所だった。
「今日は何だか、外が賑やかですね」
だから私は不思議に思ってそう言った。
「夜市の準備とか打ち合わせだろ」
するとベリト様は当然とでもいうように答えた。
「夜市?」初めて聞く言葉だった。
「年に一度の、まぁ夜の祭りみたいなもんだ。商店街で週末から二日間ある」
「お祭り」
お祭りとは確か屋外に様々な露店が並んで、遊んだり食べたりする行事のことだ。
壁区にはお祭りがなかったので私は行ったことも見たこともないけれど、とても賑やかで楽しげな行事だということは聞いたことがあった。
どんなのだろう……。
お祭りに思いを馳せながら窓から外を眺める。窓の向かいには建物があるだけで、商店街が見えるわけでもない。それでも、話しに聞いただけのお祭りがこんなに近くであると分かっただけでも、私は何だか心踊る気分だった。
そうしてつい勉強も忘れて外を眺め続けていると、
「見習いもユイに言えば行けるぞ」
とベリト様が言った。
「そうなのですか……!」
私は思わず声を上げながら彼女を見る。
こちらを見ていたベリト様は、気圧されるように少し目を見開いた。
「あぁ。週末前にでも聞かれるだろ。小遣いも貰える」
お祭りに行ける――それだけでも私は天にも昇る心地になった。
だから自然と頬が上がってしまう。
「そんなにか」
とベリト様に言わせるぐらいに私は今ものすごく笑顔らしかった。
「お祭りに行くのは初めてですから」
「初めて」
彼女は私の言葉をなぞると、続けて納得するように「そうか」と呟いた。
その様子を少し不思議に感じながらも、ふと思ったことを口にする。
「ベリト様は行かれないのですか?」
訊かれてベリト様はあからさまに眉をひそめた。
「行くように見えるか」
それが分からないから訊いたのだけれど……ああでも、他の見習いが同じことを訊かれれば、これまでの彼女の印象からしてきっと誰もが見えないと答えるのだろうとは思った。
私としては、別に彼女がお祭り好きでもおかしくないと思うけれど……。
お祭り好きのベリト様か……。
そう何気なく思った私は、彼女がお祭りに行く様子を想像してみた。
目を輝かしながらお祭りを巡り、美味しそうに何かを食べて、楽しそうに露店で遊ぶ――……いやいやいや、いくらなんでも流石に人物像が違いすぎる。
私はそれを頭から振り払い、もう一度、想像を試みる。だけど、なんど思い浮かべても出てくるのはお祭りではしゃぐベリト様の姿だった。
もしかしたら自分のお祭りに対する期待が、そういう想像しか出来ないようにさせているのかもしれない。外見はベリト様でも中身が私になってしまっているのかもしれない。
でも、それはそれで見ていてなんとも笑顔になる光景だった。
思わず笑いが零れるぐらいには。
「何がおかしい」
ベリト様が訝しげに訊いてくる。
「いえ、お祭りではしゃぐベリト様を想像してみたら、それが微笑ましくてつい」
彼女は複雑そうに眉を寄せた。
「……変な想像をするな」
「はい。すみません」
謝罪しながらも口元に手を添えて笑いを堪える私をベリト様は半眼で見たあと、ため息をついて作業机へと向き直った。
お祭り。お祭りか。
アルバさん達も行くのだろうか。いや、きっと行くに違いない。
もし行くつもりがなくても、ロネさんが行くと言ったらあの二人は行きそうだ。
そしてお優しいみなさんのことだから私も誘ってくださるだろう。
友人――と言ってもいいですよね――とお祭りに行けるだなんて、夢のようだ。
誰かと何かを楽しむためだけにお出かけをするだなんて、こんなに幸せなことはない。
そう、誰かと――……。
私はベリト様を見る。彼女は課題の採点をしているようだった。
一人でも、友人とでも、想像しただけでこんなにも心が躍るのだ。
それがもし――。
「ベリト様」
「なんだ」
ベリト様はこちらを見ず、手を動かしたまま答えた。
「行けるのは一日ですか」
「いや、二日とも行けたはずだ。小遣いは増えないが」
二日……それならば。
私は椅子から立ち上がるとベリト様の側に近づいた。
彼女はこちらに顔を向けて、不思議そうに眉を寄せる。
「どうした」
「ええと、ですね……」
それを口にしようとして、言葉が喉で立ち止まってしまった。
急激に緊張したせいだ。
私はそれをまぎらわすために修道服を握りしめる。
でも、それは全く意味がなかった。
だんだんと胸の鼓動が早くなり、挙句には息苦しさまで覚えてくる。
どうして私はこんなに緊張しているのだろうか。
一世一代の大勝負みたいな気持ちになっていのだろうか。
そもそも、それが許されるのかも分からないのに。
でも彼女も一応、修道院の関係者ではあるし。
全くの外部の人間というわけでもないし。
可能性はなきにしもあらずだし。
そうしてぐるぐると思考を巡らせて言葉を口に出せない私を、ベリト様は、じっ、と見ながら待っていてくれていたけれど、次第にその顔が怪訝なものになっていく。
それはそうだ。
口を開いたり閉じたりして私が何も言わないのだから。
端から見たら、さぞ変に映っていることだろうと思う。
思う、ではない。確実に変だ。
私は今もの凄く醜態をさらしている。
そう気づいた途端、耳が熱くなり、このままの状態が続けば顔まで真っ赤になってしまいそうだった。
それは不味い。
それだと何だか流石に言い逃れがつかない状況になる気がする。
何を言い逃れしたいのかは分からないけれど、もう自分でも何を考えているのかよく分からなくなってきているけれど、ともかくこれ以上、この状態を長引かせるのはよくない。
……ええい、駄目でもともとだ。
私は息を吸い込むと、意を決してそれを口にした。
「よろしければ一緒にお祭りに行きませんか……!」