大陸暦1975年――08 触れる2
「星粒子が何かは分かるな」
その声音は、いつものベリト様のものだった。
そして拒絶の言葉でもない。
それだけでも私は嬉しくて頬が上がりそうになった。けれど流石に今それをするのは憚られたので、なるべく平常を保つよう努める。
「はい」
答えて不思議に思う。どうして今それを訊くのかと。
星粒子とは星教が信仰する二神の内の一神、創造神である星蒼神の一部だ。
星蒼神はもともとこの世界に存在していた魔粒子――魔法の源――と、自らの身体からこの世界に放った星粒子――命の源――を混合して人を創造したと言われている。
「星粒子には様々な性質がある。その代表的なものがユイやお前のように神星魔法を扱う素養だ。そしてこれはもうお前も知っているだろうが、神星魔法は星粒子を体内に持っていても、それ自体に輝きがないと扱うことができない。だから神に与えられし魔法、神星魔法だなんて呼ばれている」
そして神がお隠れになった今、その影響かは定かではないけれど、素養を持つものは減ってきている。
「だが星粒子の性質はそれだけじゃない。稀に異能……星教は祝福なんて呼んでるが、それを持って生まれるものもいる」
そう、言うことはつまり。
「私は生まれつき、人の心を視ることができる」
心を……みる?
「接触することで人の記憶や感情が流れ込んでくる。意図してではない。勝手に視させられるんだ」
静かに、だけど忌々しげにベリト様はそう言った。
「信じるか信じないかはお前の勝手だ。だが、どちらにせよ私には触れるな」
私に、と彼女はつぶやく。
「私に心など、視られたくはないだろう」
その最後の一言が、彼女の全てのような気がした。
そして、それで理解できた気がする。
ベリト様という人を。
おそらくこれまで彼女はその力で辛い思いをしてきたのだろう。
それが人の嫌な部分をたくさん視てきたからなのか、その力のせいで人に忌み嫌われてきたのか、確かなことは分からないけれど。
でも、その力が原因で人を遠ざけるように生きてきたことだけは想像がつく。
人を突き放すような物言いをするのも、ベリト様が人嫌いだからではない。
そうするほか、なかったのだ。
触れることで簡単に人のことを知ることができてしまうからこそ、安易に人と関わることができない。
だってそれは相手が望んだ上で得られたものではないから。
心を開いてくれたことにより与えられたものではないから。
お互いの了承もなく一方的に視させられるものだから。
だから彼女は人に触れられない――触れさせないのだ。
自分のことよりも、視られた人の気持ちを考えて――。
目の奥が、じん、と熱くなる。
……あぁ。
なんて、優しい人なのだろう。
これまでも彼女は嫌われようと、恐れられようと、人を遠ざけて生きてきたに違いない。
なるべく人から距離を取って生きてきたに違いない。
そして彼女のことだ。これからも、そうして生きていくのだろう。
誰とも深く関わることなく、一人で生きていくのだろう。
そんなの……あんまりだ。
そんなのはあまりにも、悲しすぎる。
こんなにも思いやりのある人が、人の中で生きることができないなんて。
こんなにも優しい人が、人の温もりにも触れられずに生きていくなんて。
たとえそれが神から授けられた祝福の副産物だとしても。
神が与えた試練なのだとしても。
私は――認められない。
私はそんなの許せない――。
「分かったならもう私には近づくな」
私は手に持っていたものを執務机に置くと、未だに背を向けているベリト様の元へと向かう。
「勉強もそこまで追いつければ私が教えなくと、も――」
そして話し続ける彼女の手を取った。
「――っ!」
ふいを突かれたベリト様は、避ける間もなく私に手を掴まれる。
「は、離せ……!」
「嫌です!」
私の手を振り払おうとするベリト様の手を、両手で持てる力のかぎり握る。
「っ……嘘じゃないんだ……! 私は本当に――」
「信じています! だからこそ、そんな理由、納得できません……!」
ベリト様がたじろぐように目を見開いた。彼女が意を決して話しただろうことを、私が『そんな』なんて言ってのけてしまったからだ。
もちろん私にも分かっている。
本当は『そんな』なんて一言で片付けてはいけないことを。
その力はベリト様にしてみれば生き方を、在り方さえも決められてしまうぐらいに彼女自身に深く食い込んだ大きな問題だ。そのことで彼女が悩んだり苦しんだりしてきたことは、聞いたばかりの私にだって想像はつく。
でも、そうだとしても、私には些細な問題に過ぎない。
いや、失礼を承知で思うのならば、私にとっては問題ですらない。
記憶を視られてしまうことが何だというのだ。
感情を視られてしまうことが何だというのだ。
そんなのは理由にならない。
そんなこと、私が彼女に触れてはいけない理由にはならない――。
「別にお前を」ベリト様が衝撃から立ち直るように顔をしかめた。弱まっていた手の抵抗が再び強まる。「お前を納得させるために話したわけじゃない……!」
「分かっています!」私は彼女の手を逃がすまいと力を込める。「それでも私はそんな理由だけで苦しんでる貴女に手を差し伸べられないのは、身体すらも支えることができないのは嫌なんです! だから私は手を離しません! 私が貴女に触れてもいいと許可を頂くまで離しません……!」
そう言いたいことだけ言い切って、私は俯いた。
自分でも癇癪を起こした子供みたいなことを言っている自覚はある。
相手に選択権があるようでない無理難題をふっかけていることも。
そして、彼女の気持ちを汲むならば、反発せずに素直に受け入れてあげるべきだということも。
それでも、それが分かっていても、これだけは受け入れるわけにはいかない。
彼女が自分のためではなく人のことを考えてそうしているのならば――触れてはいけないというのならば、認めるわけにはいかない。
俯いた視線の先にはベリト様の手と、それを両手で必死に掴んでいる自分の手が見える。
私はその手に全身全霊を傾けた。
宣言どおり許可を貰えるまで離すつもりはなかった。
どれだけ時間がかかっても、何を言われても何をされても絶対に――。
そうしてそのことだけに集中していたら、ふと抵抗が完全に無くなっていることに気がついた。と、同時に頭上から静かな声が降ってくる。
「お前……無茶苦茶だな」
私は握った手から顔を上げる。
ベリト様は顔をそむけていた。その表情は困惑するように歪んでいる。
「……分かっているのか。お前の記憶と感情が今、私に流れているんだぞ」
全部、見られている。
そのことに思うところがないわけではない。
私の記憶は、大手を振って人様に見せられるような綺麗なものではないから。
見ていても、きっと気分のいいものではないだろうから。
それでも。
それを見られてでも、私は知って欲しかった。
全てを知った上で、貴女の手を取る人がいることを。
人の手の温もりを。
そして私の心を――。
「はい。分かっています」
「気持ち悪く、ないのか」
私は彼女に微笑みかける。
「それは、分かるのではないのですか?」
この手を通じて、伝わっているのではないのですか。
私が今、どう思っているのかを。
どう感じているのかを。
この胸に広がる温かさを、高鳴る鼓動を。
貴女に触れられたことで生まれたこの想いを――。
ベリト様がゆっくりとこちらに顔を向ける。
彼女と目が会う。
私を映す金の瞳は、揺れていた。
寄せた眉根が震えて、しかめ面で下唇を噛んでいる。
その顔はまるで、泣くのを我慢している幼子のようだった。
「……馬鹿だなお前は」
ベリト様は零すようにそう口にすると、俯いた。
「本当に……馬鹿だ」
そしてもう一度、小さくそう呟いてから、静かに瞳を閉じた。