大陸暦1975年――08 触れる1
治療学の授業日がやってきた。
つまりは私がベリト様のもとへと訪れる日。
あの日が週初めの授業日だったので、今日は週終わり前の授業日になる。
その間、日数にして四日ほど。いつもなら次の授業日を楽しみにしつつも、まだ覚えることがたくさんある修道院での日々に追われ、あっという間に過ぎ去ってしまうぐらいの日数。
でも今週はその四日間が随分と長く感じられた。
それはきっと何をしていてもベリト様のことが心のどこかにあったからだと思う。
体調の心配はもちろんのこと、あの日のことが強く印象に残ってしまっている私は、早くいつものベリト様の姿が見たかった。
背筋がきちんと伸ばされ、お世辞にも愛想がよくない仏頂面を浮かべた、低く落ち着いた声で喋る、いつも通りの彼女に、会いたかった。
その気持ちは足取りにも出ていたのだろう。私はいつもよりも短い時間でベリト様の仕事部屋の前へと辿り着いた。
中に入る前にまず、窓へと視線を向ける。最近は――おそらく私のために――開いていた仕事部屋のカーテンが、今日は締め切られている。
留守ではないとは思うけれど、念のために確認しようと私は目を閉じた。
こうするのは視覚情報を遮断して気配を視るためだ。
人の気配を感じ取ることは魔法の勉強をする中で覚えたことだった。
これは魔道士でなくても鍛錬を積めば誰でも出来ることらしいけれど、特に魔道士――魔法の素養がある人間――はその感覚に優れているという。そのお陰か、私も一旦、要領をつかんだら難なくそれをこなせるようになった。ただし、まだ経験不足ではあるので視覚情報を遮断せずにそれを行なうのは難しかった。
私は意識を視ることに集中する。中からはひとり分の気配が感じられる。
ベリト様で間違いないだろう。
目を開けると右手を胸に当てた。
こうと決めたら突き進んでしまう性分ではあるけれど、先日の今日だからやはり緊張は感じていた。だから深呼吸をして心を落ち着ける。
ベリト様も必ず、気配で私が来たことに気づいている。
だからここであまり立ち往生しているわけにはいかない。
私がここで時間をかければかけるほど、先日のことを気にして入りづらくしているのだと彼女に思われてしまうだろうから。
何度か深呼吸をしたあと、よし、と心のなかで呟くと、私は扉を開けた。
リンリン、と扉上の鈴が元気よく鳴り響く。
「おはようございます。ベリト様」
私は鈴が鳴り止まない内に挨拶をした。
いつもは鈴の音が小さくなってから挨拶をするのだけれど、今日は第一声がいつも通り出るか不安だったので、出なかった時のためにとまぎらわすためにそうした。どうやらその判断は正しかったらしい。自分の耳に届いた声は少し上擦っていたから。
「あぁ」
薄暗い室内からベリト様の返事が届く。いつも通りの短い応答。
でも、その声には幾分か元気がないように感じた。
見ると今日、彼女は奥の作業机に向かっていた。だからこちらには背を向けていて表情を見ることはできない。その向けられた背中も普段の姿勢のいいものではなく、気持ち丸まっている気がした。
「もう、お体は大丈夫なのですか」
私は執務机の近くまで行きながら訊いた。
少しの沈黙のあと「あぁ」と、先ほどと同じ調子の返事が返って来る。
それがベリト様の本心からの返事なのかは分からないけれど、声の元気のなさと、気持ち丸まった背中からして本当はまだ万全ではないのかもしれないけれど、それでも本人の口からそれが聞けただけでも私は胸をなでおろす思いだった。
命に関わるものではないと聞いていても、やはり心配だったから。
「そうですか。元気になられて良かったです」
執務机の横に移動した私は、課題と教本を抱くように持ったままベリト様を見る。作業机から斜め後ろにあたるここからでも、まだ彼女の顔は見えない。黒い横髪が横顔を隠してしまっているせいだ。
ベリト様は黙っていた。
普段の彼女ならここも『あぁ』と返事をしていたことだろうと思う。
たとえ色んな言葉が浮かんでいたとしても『あぁ』とか『そうか』など短い一言に集約させてしまうのがベリト様だから。彼女が多く語らない人だということは、語るのが苦手だということは、短い付き合いの私にも、もう分かっている。
そんなベリト様が今、短い返事すらしないということは、他に何か言いたいことがあるからだと思う。一言ではなく、言葉として私に伝えたいことが。
だから私は待った。彼女の言葉を。執務机の横に立ったまま。もしかしたら先日のことについて、彼女の方から何か話してくれるかもしれないという期待も込めて。
けれど、しばらく待ってみてもベリト様は口を開かなかった。
そのため薄暗い室内には沈黙だけが流れ続ける。ベリト様が日常的に鳴らしている、ペンを走らせる音も聞こえてこない。彼女は何もせず、微動だにもせず、ただ本当に作業机の前で佇んでいた。時間が止まったかのように立ち尽くしていた。
それでも作業をされていないということは、何かしら思考を巡らせているのだとは思うけれど……考えがまとまらないのだろうか。もしくはまとまっていても口に出しにくいのか――……。
何気なくそう考えて、思わず私は苦笑した。
まさにそれだなと思ったからだ。ベリト様のことだからそうに違いないと。
彼女が何も言わないのは、言葉が見つからないわけでも、考えがまとまらないわけでもない。単純に言えないのだ。
言いたいことがあるのに、それを口に出せないのだ。
彼女は不器用だから。
素直に自分の気持ちを出すことが苦手だから。
だから困っている。
短い返事で済まさず、口にしようと決めたのに。
結局は言えなくて、どうしようもなくなって黙りこくっている。
そのことに気づき、私の胸には温かいものが広がった。
硬直するぐらいに困り果てて、それでもそこまで追い詰められても言いたいことが言えないだなんて、本当に不器用にもほどがある。
でも、そんな不器用な彼女が、私は愛おしく思えた。
「ベリト様」
名前を呼ぶと、彼女の身体が小さく跳ねた。それまで静止していた身体が、石化から解かれたかのように息を吹き返す。
「ベリト様に伺いたいことがあります」
私は待つのを止めて、自分から切り出すことにした。
ベリト様が何を伝えようとしてくださったのかすごく気になるけれど、それを聞くことは諦めた。彼女が本当に観念するまで待っていたら帰る時間になるのはおろか、日が暮れそうな気までしたので。冗談ではなく本当に。
「……なんだ」
私の言葉から少しの間を置いて、ベリト様は答えた。
警戒するような口調だった。
そんな彼女に私は単刀直入に訊く。
「貴女に触れてはいけないのは何故ですか?」
場の空気が固まった、気がした。
ベリト様の頭が、こちらに意識を向けるかのようにわずかに動く。
「……そんなこと、知ってどうする」
そう言った彼女の声からは戸惑いと、そして拒絶のようなものを感じた。
そのことから彼女がその話題に触れて欲しくないと思っているのは明白だった。
本来ならそう気づいた時点で引くべきなのは分かっている。人の秘め事を暴こうとするのは決して好ましくない行為だし、私だって本当ならしたくない。
だけど、ここで引いてしまっては何も変わらない。
ここで踏み込まなければ何も変えることができない。
これが私の一方的な気持ちだということは、自己満足だということは理解している。
だけど、それでも私は――。
「嫌なんです」
ベリト様の頭が少しだけ上がる。
「貴女が苦しんでいる時、手を差し伸べられないのは、見ているだけなのは嫌なのです。だからせめて触れてはいけない理由を知りたい――そう、思ったのです」
そして、それを知ることができたのならば、その上で出来ることを探りたい。
ユイ先生がルナ様のためにしたように、私もベリト様のために何かをしたい。
ベリト様はわずかにこちらに向けていた頭を正面に戻した。
室内には再び、沈黙が訪れる。
これで駄目ならそれは仕方のないことだと思う。
それだけベリト様はそのことを人には話したくないということだから。
でも、そのことで私は落胆したりはしない。
伝えた思いは決して無意味にはならない――そうユイ先生にも言われたし、私もそう思うから。
それに、今日が駄目でもそれで終わりというわけでもない。
これまでの口振りからして、おそらくユイ先生はベリト様の秘密を知っている。そしてそれはルナ様も同じだろう。ベリト様を見つけたのは彼女なのだから。
あのお二人が知っているということは、知っている人間がいるということは、まだベリト様に話していただける可能性があるということだ。
そのことは私にとっても希望になる。だから決して諦めたりはしない。
ベリト様は俯いていた。そのままの姿勢でじっとしている。とはいっても先ほどみたいに固まってはいない。視線を泳がせているのかわずかに頭が動いている。おそらく一生懸命、考えてくれているのだろうと思う。話すか話さないべきかと、今まさに彼女の中で激しい葛藤が行なわれているのかもしれない。
私は目を伏せて、静かに呼吸をすることを心がけた。
彼女の思考を邪魔しないように、沈黙を守りながら返事を待つ。
心は落ち着いていた。どんな返答でも受け入れる覚悟が出来ているからだろう。
そうしてどれくらい経ったころだろうか、長い沈黙を破るかのように大きく息を吐く音が聞こえた。
私は視線を上げてベリト様を見る。彼女は俯いていた頭を上げていた。
ベリト様はわずかにこちらに顔を向けてから口を開いた。




