大陸暦1975年――07 夜の音色4
「ユイ先生。ありがとうございます」
心から感謝を述べると、ユイ先生は微笑んだまま小さく頷いた。
今日あの時からずっと重かった気持ちは吐き出したことにより大分、軽くなっていた。
もし今後また同じことがあったとしても大丈夫だろうと思える。ユイ先生がいてくだされば、きっと乗り越えることができると。
――でも。
そこまで考えて私は疑念が頭をもたげた。
本当にそれでいいのだろうか。
まだ、早いのではないだろうか。
これを仕方のないことだとして受け入れるのには、諦めるのには早すぎるのではないだろうか。
だってまだ私は何も――。
「――ユイ先生」
その確信を得るためにも、訊かなければと思った。
そこまで立ち入るべきことではないと分かりつつも、それでも私は確認したかった。
「一つだけ伺ってもよろしいでしょうか?」
お答えになりたくなかったらいいですので、と私は付け加える。
ユイ先生は微笑みを消して頷いた。私の顔から真剣な話しだと察してくれたのだろう。
「ユイ先生はマドリックの医療を学ぼうと思われましたか?」
もしくは学んだか――それは言わなくても伝わるだろうと思った。
ユイ先生はわずかに目を見開くと、そのまま流れるように目を伏せた。そして少しの間を置いてから「学びました。一通りは」と答えると、正面を向いて膝の上の視線を落とした。そこには先生の手が組んで置かれている。
「ですが私は手先が器用ではなく、向いていなかった。ルナがリベジウム先生を」
そこでユイ先生は言葉を止めて私を見ると「彼女がマドリック治療士だということは?」と訊いてきた。頷いて肯定すると、先生は正面に向き直り続きを口にした。
「彼女を――ベリトを探し出したのも私がそれを勧めたからです」
つまり最初はユイ先生がルナ様の治療をしていたのだ。けれど自分で出来ることの限界を知った先生は、ルナ様のために最善と思われる選択をした。
それはきっと辛い選択だっただろうと思う。
やはり自分の力では救うことができないのだと再確認させられた上に、助けたい人の命を人に委ねることになったのだから……。
それを訊いて私は後悔した。
「すみません。辛いことを話させてしまいました」
頭を下げて、心から謝罪をする。
私がユイ先生にしたことは、古傷に触れるような行為だ。
たとえそれが意図したことではなかったとしても、安易に立ち入ってはいけないことだと分かりながらも訊いてしまった時点で結果責任は自分にある。
後悔と反省を交えながら頭を下げたままでいると、頭上から「気にしないでください」と柔らかな声が振ってきた。私は覗うように視線を上げる。視界に小さく微笑むユイ先生の顔が見えた。
「今ではそれで良かったと思っています。学んでいるときに星都にいるマドリック治療士には大方お会いしましたが、どの方もベリトの腕と知識には適わないものでしたし、それに実際、彼女には何度もルナを助けて頂きましたから」
何度も。
「ベリト様、凄いんですね」
消沈していたことも忘れ、つい素直に感心してしまう。
「えぇ、本当に。彼女にないのは愛想と絵心ぐらいです」
私は感心した表情のまま何度か瞬きをした。瞬きをして、遅れてそのことに気がついて笑いが込み上げてきた。
ユイ先生は冗談を言ったのだ。
私が知るかぎり、先生が冗談を口にしたのはこれが初めてだった。だからか珍しさも相成って、私は余計におかしくなってしまう。口元に手を当てて何とか声を出さないように我慢するけれど、それでも頬が緩んでしまう。
反省しなければいけないのに、笑っている場合ではないのに、先生が冗談を言ったことの破壊力が強すぎて、つい後悔から凝り固まっていた心がほぐれてしまった。
「今言ったことは、本人には内緒にしておいてくださいね」
ユイ先生はひとさし指を口に当てて私に口止めをすると「絵に関しては気にしていますから」と付け加えた。
言われてそういえば、と思い出す。
教本の絵について私が触れたとき、そんな素振りを見せていたような気がすると。
どうせ下手だと思っているんだろう、と口にしたベリト様の顔は今思えば、拗ねているようにも見えなくもない。
そうか、あれはそういうことだったのか、と私はさらに頬がほころんでしまう。
人の弱点を笑ってはいけないと分かっているけれど、それでもそのことを気にしているベリト様が可愛らしく思えてとても我慢出来なかった。
「それで」ユイ先生が言った「貴女はどうするのですか」
「え」私は先生を見る。
「貴女のことですから、興味本位で訊いたのではないのでしょう?」
内心、苦笑した。ユイ先生は何でもお見通しだなと。
そしてふと思う。もしかしたら先ほども先生は気遣ってくれていたのではないかと。
立ち入ったことを訊いてしまったことで私が後悔していたことを見抜いて、あえて冗談を言って和ませようとしてくれたのかもしれないと。
そうだとしたら――いや、きっとそうに違いない――適わないな……と内心、私は苦笑を深めた。
私はその心遣いに感謝しつつ、和らいだ気持ちと姿勢を正してから改めてユイ先生を見た。
「ユイ先生は、ルナ様のためにできるだけのことをなさいました。最善を尽くされました。でも、私はまだ何もしていません」
そう、私はまだ何もしていない。
何も知ろうともしていないし、できることも模索していない。
ユイ先生のように努力したり、最善を尽くそうともしてない。
それなのにベリト様に手を差し伸べることはできないのだと諦めるのにはまだ早すぎる。
そんなの自分から傍観者になることを選んでいるだけだ。
手をこまねいて、見て見ぬ振りをすることを選んでいるだけだ。
それは嫌だ。そんなのは嫌だ。
特にベリト様に対しては絶対にそんな立場にいたくない――そう強く思う。
「だからベリト様に訊いてみようと思います。私の思いを伝えた上で、どうして人に触れられるのが嫌なのですかと」
ユイ先生はわずかに目を見開いたあと、困ったように苦笑した。
「貴女にしては随分と直球ですね」
「そうでもありません」私は笑ってみせる。「実は私、決めるまでが優柔不断で、決めたら猪突猛進な性格なんです」
そうなのだ。私はそういう性分なのだ。
そうだと教えてくれたのは路上住みの物知りお爺さんだった。
お爺さんは孤児に色々な知識を与えてくれただけでなく、孤児の悩みもよく聞いてくれていた。そのお爺さんに『お前さんのように、うじうじとあれこれ考える癖にそうと決めたらそれまでの迷いもなかったかのように突き進む、優柔不断と猪突猛進を兼ね備えている奴は珍しい』と笑って言われたことをよく覚えている。
それを聞いた時は、私は目から鱗が落ちる思いだった。
自分ってそういう人間なんだなと、その時、初めて自覚できた気がした。
ユイ先生は私の言葉に小さく笑うと、そのまま目を伏せて「そうでしたね」と小さく呟いた。それが何だか以前からそのことを知っていたかのような口振りに聞こえたけれど、すぐに気のせいだろうと思った。これまでの関わり合いから、そう気づいていただけだろうと。
それからユイ先生は少し考えるように沈黙したあと、私に顔を向けた。
「私は貴女の意思を尊重したく思います。ですが、一つだけ心に留めておいてください。どのような結果になろうとも、貴女が伝えた思いは決して無駄にはならないことを」
「はい」
返事をすると、ユイ先生は微笑んだ。そして私の頬に触れる。
「さあ、もう戻りなさい」
私は頷いて立ち上がる。
「はい。おやすみなさい。ユイ先生」
「おやすみなさい。フラウリア。よい夢を」
私は一礼をして礼拝堂の出入口へと向かう。
そして扉の前に着くと、外に出る前に一度、振り返った。
ユイ先生はまだ同じ場所に座っていた。でも、少しだけ俯いている。
おそらく手を組んで祈りを捧げているのだろうと思った。
その祈りの内容が何かは考えずとも、私にも分かった。