大陸暦1975年――07 夜の音色3
「昼間のことを気にしているのですか」
ユイ先生はこちらに顔を向けて、そう訊いてきた。
今日、ユイ先生はお戻りが遅かったので、私はまだベリト様のことを話してはいない。それでも先生が知っているということは、ルナ様から聞いたのだろう。
「……はい」私は頷く。
そう、眠れない原因はそれだった。
目を瞑ると今日の出来事が思い浮かぶのだ。
ベリト様のところで今日あったことが、彼女のあの時の顔が、苦しそうな顔がありありと、鮮明に。
その度に私は胸が締め付けられて眠ることができなかった。
「殿……」ユイ先生はそこで言葉を止めると、淡く苦笑を浮かべて続けた。「ルナも言っていたでしょう? 命に関わるものではないと」
「そのことについては安心しています」
「では何に気を病んでいるのですか?」
ユイ先生から視線を外して、自分の膝の上を見た。
そこには自分の両手が置かれている。
私は無意識にその手を、ぎゅっ、と握りしめた。
そしてあの時――手が震えていた時に感じていた気持ちを吐き出すように口にした。
「なにも、できなかったことです」
これまでも、そういうことはあった。
暴力を受けて大怪我を負ってしまった人。
飢えや寒さで衰弱してしまった人。
病気で苦しんでいる人。
私はその人達を助けようと――助けたいと、思っていた。
でも、私は治療士ではないから、怪我や病気を治すことはできない。
裕福ではないから、人に分け与えられるものなどない。
そんな私に出来たのはせいぜい、死にゆく人の側に付いてあげること――死を前にしている人を孤独にさせないことだけだった。
そんなことしか出来ない自分が本当に悔しかった。
たとえそれがよく知らない人でも、他人でも、辛かった。
死を看取るたびに自分には何も出来ないのだと、無力なのだと、思い知らされた。
だから人を癒す力があると知ったとき、素直には喜べなくても、嬉しかったのだ。
本心では本当に嬉しかったのだ。
これで、人を助けることができる。
この力があれば、誰にでも救いの手を差し伸べることができると――。
――でも……。
「ベリト様が苦しんでいらっしゃるのに、私は何もできなかった」
それも触れられなければ意味がない。
補助と治療魔法は一度、対象に触れなければならないという制約がある。
そうすることにより自分の体内にある活発な粒子に触れさせ、対象の体内にある粒子を活性化させるのだ。そうしなければ魔法の効果は発揮されない。
つまり私には、ベリト様を救うことはできない。
ベリト様が苦しんでいても、彼女に触れられない私には魔法を使うことはおろか、手を差し伸べることも、身体を支えてあげることさえもできない。
……誰かを救えないことは、これまでにも経験してきたことなのに。
そのたびに感じてきたことなのに。
でも、今日ほどそのことが辛いと思うことはなかった。
苦しんでいる人に触れられないことが、何よりもベリト様に触れられないことが、こんなにも辛く苦しいことだとは思わなかった。
握りしめた手の上に水滴が落ちる。
「フラウリア」
私は泣いていた。
あの時に抱いた感情が蘇ってきて、お昼にルナ様がいた時のようにまた泣いてしまっていた。目からは涙が次々と流れ出てきて、自分の手の甲に滴り落ちていく。
私はそれを拭うこともせず、ただ溢れ出る感情に身を委ねた。
それを止められないことはもう分かっていたから。
全て出してしまわないと止まらないことは分かっていたから。
そんな私にユイ先生は何も言わなかった。
けれどその代わりに私の背を優しく撫でてくれている。気持ちが落ち着くのを待ってくれているのだ。私の心がまだ不安定だったころもそうだったから。私が泣いていると先生は必ず、こうして静かに背を撫でてくれていたから。
そうして、しばらくして涙が収まってくると、ユイ先生が静かに口を開いた。
「貴女の気持ちはよく分かります」
私は頬に伝っていた涙を拭うと、顔を上げてユイ先生を見た。
先生は正面の祭壇を見ていた。その目はどこか遠くを見るように細められている。
「助けたいと思っている人に、手を差し伸べられない気持ちは」
それは話し振りからして、私のように魔法を学ぶ前のことや、ベリト様のことを言っているのではないことは分かった。
だからこそ不思議に思った。
「ユイ先生の力でも、助けられない人がいるのですか」
星教で指折りの癒し手である先生でも――。
ユイ先生は視線をこちらを向けて小さく微笑むと、また祭壇の方を見た。
「いますよ。どんなに魔法に長けていたとしても、傷を治せない人は」
その横顔は微笑んだままだったけれど、でも、どこか辛そうに見えた。
魔法に長けていても治せない人。
魔法でも傷を治せない人――……。
「それは」
もしかして、と思う。
もしかしてルナ様のことではないかと。
いや、きっとそうだ。
ルナ様には、魔法の源である粒子を体内に持たないマドリックである彼女には、魔法が効かないから。
……ああ、だから。
私は先ほどのことを思い返す。
仕事へと赴くルナ様を見送るユイ先生の顔を。
ルナ様の口振りから彼女が、彼女の部隊の仕事が犯罪者に立ち向かい、そして捕まえることなのは間違いないと思う。
それはとても危険な仕事だ。そのことは星都の治安部隊である城下守備隊を見れば一目瞭然だし、私も実際に目の当たりにしたことがあるから知っている。
壁区で犯罪組織と衝突する城下守備隊や、その際に負傷したり死んでしまった守備兵を。
警告と見せしめのためだけに惨殺されてしまった、巡回の守備兵の無残な姿を。
流石にそこまで治安が悪いのは壁区ぐらいだとは思うけれど、それでも決まりも道徳もない犯罪者を相手にする危険性はどこでも変わらないと思う。
だからこそユイ先生はあんなにも心配そうなお顔をされていたのだ。
ルナ様が怪我をしても魔法では治せないから。
普通の人には致命傷ではない怪我も、ルナ様には致命傷になり得るから。
たとえ触れることができても、ユイ先生にはルナ様の傷を癒すことが出来ないから。
人を助けられる力があるのに、助けたいと思っている人には意味がない――。
それも辛いなと思った。……凄く……辛い。
「フラウリア」
こちらを見たユイ先生が困ったように眉を寄せた。
私にはユイ先生の気持ちが分かる。痛いほど分かる。
想像するだけで胸が締め付けられるぐらいに分かってしまう。
だから止まりかけていた涙がまた溢れ出してしまっていた。
「すみません。泣かせるつもりはなかったのです」
申し訳なさそうに言うユイ先生に、私は首を振る。
「私が勝手に……」
泣いているだけですから、と言おうとしたけれど、先ほど以上に泣いてしまっていた私はそれを最後まで口には出せなかった。
そんな私の背をユイ先生は再び撫でてくれる。
「貴女は優しい子ですね」
……そんなことはない。
私はただ自分のことを重ねてしまっているだけだ。
ユイ先生の気持ちに共感してしまっているだけだ。
助けたい人を――本当に助けたい人に手を差し伸べられない辛さを、苦しさを。
そうしてまた泣きだした私が落ち着くのを待ってから、ユイ先生は話しを続けるように言った。
「フラウリア。私には貴女の気持ちが分かります。だからこそ、私には貴女の心を軽くできるような言葉をあげることはできません」
何を言ったとしても、それは気休めにしかならない。
そのことはお互いの気持ちが分かるからこそ、私もユイ先生も理解している。
「ですが貴女の気持ちを受け止めてあげることはできます。寄り添うぐらいのことはできます。なのでもし、また辛く感じるようなことがあれば、遠慮なく私のところに来て下さい。貴女の気持ちが軽くなるまでいくらでも話しを聞きますから」
そう言って、ユイ先生は微笑んだ。
それはいつも通り控えめなものだったけれど、それでも陰りのない包容力に満ちた優しい微笑みだった。
……ユイ先生は凄い。
私の話を聞けば、自分のことと重ね合わせずにはいられないかもしれないのに。
そのことでユイ先生も辛い思いをするかもしれないのに。
それでも先生は私のためを思ってそう言ってくださった。
私が感情を溜め込むことがないようにと、自ら受け皿になると言ってくださった。
たとえ大人でもそれは簡単にできることではないと思う。
辛い思いをするのが嫌なのは、年齢関係なく誰だって同じだから。
だからこそ、それを言ってしまえるユイ先生が凄いと感じる。
そして思った。私もいつかそういう大人になりたい。
優しくて、強くて、人の弱さを受け止めてあげられるようなユイ先生みたいな大人に。




