大陸暦1975年――07 拒絶3
修道院まで走って戻ってきた私は、真っ直ぐ院長室へと訪れた。
そのまま開け放ちたい衝動に耐えながらも扉を叩く。が、中からは反応がない。急いた気持ちに押されて思わず取っ手に手をかけるも、鍵がかけられていて扉は開かなかった。ユイ先生は留守だった。
どこへ行ったのだろうか――私は焦る気持ちの中、必死にそれを考える。
でも考えたところで私にユイ先生の予定が分かるわけがない。それは考えなくとも分かることなのに、最初からそんなことも思いつかないぐらいに私は動揺していた。
どうしよう、と思って頭に浮かんだのはアルバさんだった。
彼女はよくユイ先生とお話しをしている印象がある。それは世話役として私のことを報告しているからかもしれないけれど、ともかくにも院長室へはよく赴いている。
だから、もしかしたらアルバさんなら、先生の行き先について何か知っているかもしれない。
そう思うがすぐに私は走り出していた。
向かう先は自室だ。もう治療学の授業は終わっている。アルバさんは授業後に必ず勉強道具を置きに一旦、自室へと戻る。そしてベリト様のところから帰ってきた私と一緒に食堂へ向かうのが、常となっていた。
自室へと向かう途中、見習いとすれ違った。彼女らは一様に、訝しげな視線を私に投げかけてくる。修道院内では走ってはいけないからだ。だから修道女様に報告をされたら私は罰を受けることになるだろう。けれど、それが分かっていても、今の私には規則を守る余裕などなかった。
そうして自室前に辿り着いた私は、走ってきた勢いのままに扉を開けた。
部屋の中にはアルバさんがいた。彼女は今戻ったようで、自分の机に勉強道具を置いた姿勢のまま、驚いた表情をこちらに向けている。
「どうかしたのか?」
いつもは『おかえり』と迎えてくれる彼女も、今日は流石に私の様子が変だと気づいたのか、開口一番そう訊いてきた。
「アルバさん。ユイ先生がどこに行かれたか知りませんか?」
私の問いに、彼女は怪訝そうに眉を寄せながらも答えてくれた。
「今日なら中央教会で定例報告会だと思うけど」
「中央教会」
中央教会は星王国の星教の本部だ。場所は星都の中心部にあり、地理に詳しくないので確かなことは分からないけれど、壁近に近いここからはかなり距離が離れているのは間違いない。
「お昼には」私は続けて訊いた。
「戻ってこない。多分、夕方か夜」
急くあまりか端的に訊いてしまったけれど、それだけでもアルバさんは私の言いたいことを察してくれて簡潔に教えてくれた。
夕方まで戻ってこない……それではユイ先生に頼ることはできない。
そうなると、あとベリト様のことで頼れるのはルナ様だけなのだけれど、彼女は普段どちらにおられるのだろうか。王族だからやはり星城とかだろうか。
でも、たとえそうだとしても、連絡方法なんて分かるはずもないし、もし分かったとしても私ごときが王族に連絡を取れるわけがない。
連絡を取れる可能性があるのは、やはりユイ先生ぐらいだ。
つまりは先生がいない時点でもう、どうしようもない。
「っ……」
状況が八方塞がりだと分かって、これまで抑えてきた感情が一気に溢れてきた。
「フラウリア」
アルバさんが戸惑うような表情を浮かべている。
私が泣いているからだ。
ベリト様のところからずっと我慢していた分、それは目から口からと止めどなく溢れてくる。声を抑えようと手の甲で口元を押さえるけれど、それでも隙間からは嗚咽が漏れ、視界もあっという間に涙に溺れてしまう。
終いには溢れ出る感情に耐えられず、思わず目を瞑った、その時だった。空いてる手を、ぎゅっ、と握られた。
アルバさんだった。彼女は私の手を引いてベッドまで行くと、視線で座るように促してきた。それに従って自分のベッドに腰を下ろすと、アルバさんも隣に座った。
「どうしたんだよ」
手を握ったまま、彼女は優しく訊いてきた。
「もしかしてクロ先生と何かあったのか?」
「……違います……違います……」
私は頭を振りながら、嗚咽交じりに何とかそれを口にする。
ベリト様と何かあったわけではない。ベリト様に何かあったのだ。
彼女が体調を崩して、だからユイ先生を呼ぼうとして、だけど先生はいなくて。
そう説明すればよかったのに、そんな簡単な説明も口にできないぐらいに、私は泣きじゃくっていた。
こうしている間にも、ベリト様が苦しんでいるかもしれないというのに。
すぐ治ると言っていたけれど、治療士であるベリト様の言うことだからそれは間違いないのかもしれないけれど、それでも彼女が心配で、不安で、心が張り裂けそうな思いだった。
何も言えないでいる私にアルバさんはそれ以上、問いただしてはこなかった。
ただ眉を下げて微笑みながら、黙って私の手を握ってくれている。
彼女を困らせている。心配をかけてしまっている――そう申し訳なく思いながらも、私は言葉を返すことができなかった。
そうしてどれくらい経っただろう。私の嗚咽しか聞こえてこない室内に、コンコン、と扉の叩かれる音が響いた。
アルバさんがベットから立ち上がる。
私はロネさんとリリーさんが来たのだと思った。
もうすぐ昼食時間だから、食堂に行こうと呼びに来たのだと。
だから出迎えるアルバさんを見送らず、私は必死に涙を拭った。
こんな顔を見られてしまっては、アルバさんだけでなくお二人にまで余計な心配をかけてしまう。それだけでなく、ベリト様のところから戻ってきた私が泣いていたら、変な誤解が生まれてしまうかもしれない。彼女に何か言われたのだと、それで泣いているのだと思われてしまうかもしれない。
それでも、後からでもきちんと説明をすれば、アルバさんとリリーさんは分かってくれるだろう。だけどロネさんだけはそうとは限らない。彼女はベリト様を怖がっている。そんなロネさんにこんな姿を見せてしまったら、たとえ濡れ衣でも余計にベリト様に悪い印象を抱いてしまう。それは、それだけは避けたかった。これ以上、ベリト様が嫌われるのは嫌だから。
だから早く、早く泣き止まないと――でも、どんなにそう思っても一向に涙は止まってはくれない。私の気持ちに反するように、次から次へと涙が流れてくる。
……いや、反してはいないのだ。その気持ちのほうが強いから、ベリト様を心配する気持ちのほうが優先されているから、私の身体は涙を流すことを止めようとはしないのだ。
それならもう……どうしようもない。
この気持ちが解消されないかぎり、涙を止めることはできない。
そう、涙を拭いながらも諦めの感情を抱いていると、扉が開く音と共にアルバさんの意外そうな声が聞こえてきた。
「ルナさん」
……え。
アルバさんが口にした名前に、思わず私は涙を拭うのを止めて部屋の出入口を見た。
「フラウリアいる?」
そこで、そう言ったルナ様とアルバさん越しに目が合った。
彼女は泣いている私を見て困ったように微笑みを浮かべると、すぐにアルバさんを見て、
「ごめんアルバ、外してくれる?」
と言った。
アルバさんは「はい」と頷くと部屋から出て行く。それと入れ替わる形でルナ様が部屋に入ってきた。
私はそこでやっと、頼るべき相手が今まさに目の前にいることに気がついた。
「ルナ様。ベリト様が」
ベッドから立ち上がろうとした私を、ルナ様は手で制した。
「分かってる。貴女とすれ違いで行ってきたから」
すれ違いで行った――それはルナ様が状況を把握してくれているということであり、そのことは切羽詰まっていた私の心に、わずかながらにも安堵をもたらした。
「私、何も出来なくて。触れてはいけないから、どうしたらいいか分からなくて。ユイ先生もいらっしゃらなくて」
だからか、つい言うことが支離滅裂となってしまう。
それでもルナ様は私のまとまりのない言葉を頷きながら聞いてくださると、ベッドに座ってる自分の前に膝をついてこちらを見上げた。
「大丈夫。あれは発作みたいなもので」
「お病気なのですか……!?」
思わず食いつくように言葉を遮ってしまった私にルナ様は一瞬、驚くように目を見開くと、続けて困ったように微笑んだ。
「命に関わるものじゃない。休めばすぐに収まるわ」
「ほんとう、に」
「ほんとうに」ルナ様は私の言葉をゆっくり優しくなぞる。「だからもう泣かないで。ね?」
そう言って彼女はどこからかハンカチを取り出すと、私の頬を伝う涙を拭ってくれた。
――命に関わるものではない。
それを聞いて私は安堵感を抱きつつも、先ほどまでとは違う感情から生まれ出た涙を止めることは、しばらくできなかった。