大陸暦1975年――07 拒絶2
「―――リア」
……呼んでいる。
「――ウリア」
……誰かが呼んでいる。
「フラウリア」
……私を、呼んでいる。
私は、その声を、知っている。
低く、けれど酷く優しいその声を、私は知っている。
心が温かくなって、泣きそうになるぐらいに覚えている。
でも、いつ聞いたのかが分からない。
どうして、そう感じてしまうのかが分からない。
分からない。
私には何も、分からない……。
「フラウリア」
それでも、呼ばれているから行かなければと感じる。
その声のもとに行きたいと、強く思う。
だから私はただそこに漂うのを止めて、浮上する。
聞こえる声を頼りに進んでいく。
その先に見える光を、目掛けて――。
瞼の裏に光を感じ、私は目を開けた。
ぼんやりとした視界には、丸いものが二つ浮かんでいる。
金色の丸いものが――星が光り輝いている。
その回りには、白いものと黒いものが見える。
なんだろう、と重い瞼を何度か瞬かせると、次第に焦点が定まり、視界に映るものが形を成していった。
白いものは顔に、黒いものは髪に。
そして金色の星は瞳に……。
……ベリト様だ。
彼女の顔が、目の前にある。
私の前に片膝をつき、覗き込むようにこちらを見ている。
どうして、と思うが先に、なぜかその光景に既視感のようなものを覚えた。
いつか、どこかで、こんな光景を見たような……。
「起きたか」
ベリト様が立ち上がる。彼女の発した一言で私は現状を理解した。
「わたし、寝て……」
そう、いつの間にか私は寝ていたらしい。
いけないと思いつつも、ソファと窓から差し込む温かな日差しの心地良さに抗うことができず、つい、うとうととしてしまったようだ。
「すみません」
「いや」ベリト様はそこで一度、口を閉じて視線を彼方へと向けた。けれどすぐに視線を戻してから応接机へと顔を向ける。「そこに出来ている」
応接机を見ると、積み重なった本の上に数枚の紙が置かれていた。
「はい」
返事をしながらソファから立ち上がる。すると軽く立ちくらみがして、思わず指で眉間を押さえた。貧血ではない。意識がぼんやりとしている所為だ。普段は寝起きがいいのだけれど、最近は稀にこういうことがある。そういう時は決まって――。
「体調が悪いのか?」
ベリト様が横目で見てくる。
「いえ……ただ、夢を見た気がして」
そう、夢だ。
夢を見た、気がする。
昔から夢は見ないほうなのだけれど、最近は稀に見ている気がする。
その内容は起きたらいつも覚えていなくて、でも不思議と見たのだろうということだけは分かって。そういう時は決まって目が覚めたら意識がぼんやりとしているから今のようにすぐに動き出すことができず、その度にアルバさんにも体調が悪いのかと心配されたりしていた。
でも、今日はいつもと違った。
眠りが浅かった所為か、少しだけ夢の内容を覚えている。
とは言っても霧のように朧気で、今にも拡散してしまいそうに曖昧なものだけれど、それでも何だか白くて、そして幼い自分を見たような気がする。
幼い自分……昔の記憶だろうか? ……いや、それとはまた何かが違う気がする。
「懐かしいのに、まるで最近の出来事のような……」私は考えたことを思わず口にしていた。「でも、そう思うのはおかしいですよね。私には最近の記憶が無いのに」
口にしてみて本当におかしいと自分でも思った。
幼いのに最近のことだと感じるなんて明らかに変だと。
しかも私にはその最近の記憶すらも無いというのに……。
そこで私は気がついた。
ベリト様には記憶喪失のことを話していなかったことを。
「あ、すみません。お話していませんでしたよね。私は」
「聞いている」
ベリト様は私の言葉を遮るように言った。
誰に、とは思わなかった。ユイ先生だろうということは分かったから。
それは考えてみれば当然のことだった。でなければ私がこの歳で一から治療学を学んでいると知った時点で不思議に思われて、訊かれていたはずだ。
「ベリト様。記憶というものは無くなるものなのでしょうか」
夢の余韻から抜けきれない私は、ついそんなことを訊いてしまっていた。
「実は無くなったと思ってるだけで、場所が分からなくなっているだけなのではないでしょうか」
それは以前も少し考えた、素朴な疑問だった。
だから本気で知りたいわけでもないし、ベリト様が答えを持っているとも思わない。
それでも訊いてしまったのは、白い心の話しをした時のように、彼女ならそれについて何かしらの考えを言ってくださるのではないかと期待したからだった。
「どうでもいいだろ」
けれど期待に反して、ベリト様の返答はどこか冷ややかなものだった。
「無くなったものをぐだぐだ考えるのは時間の無駄だ。それよりも命が助かった今を大事にしろ」
そう言った彼女の声には明らかに苛立ちのようなものが含まれていた。
そのことに私は動揺してしまう。彼女にそういう感情をぶつけられたのはこれが初めてだったから。
「そう、しているつもりです」
「なら、なぜ無くしたものを気にする」
……気にしている……?
――いや、それは違う。
私は気にしてなどいない。
捕われているつもりもない。
無いものは無いものとして、私はもう受け入れられている。
今さら記憶を取り戻したいとも思ってはいない。
けれど――そう。一つだけ。
たった一つだけ引っかかりは感じている。
気持ちに余裕が出来てからずっと、心のどこかに引っかかっている。
そのことを考えるだけで心がざわついてしまう。
まるで私に、心が何かを訴えかけているような――。
「――何か、何か大事なことを忘れているような、そんな気がするのです」
内から零れ落ちるようにそう口にすると、ベリト様は目を見開いてこちらを見た。
それは驚くというよりは、信じられないものを目の当たりにしたかのような表情だった。
そんなにおかしなことを言ってしまっただろうか……? ベリト様の反応に私が戸惑いを感じていると、彼女は見開かれた目を細めてまるで不愉快だとでもいうように顔をしかめた。
そして彼女が何かを言おうと口を開いた、その時だった。
ベリト様は何かしらの衝撃を受けたようにまた目を見開くと、ばっ、と勢いよく手で胸を押さえた。
「……ベリト様?」
何だか様子がおかしい彼女に、私は思わず声をかける。
ベリト様はよろよろとした足取りで執務机に歩いて行くと、背を向けたまま言った。
「なん、でも、ない」
それは彼女にしては力ない、そして途切れ途切れの声だった。
今まで見たこともないベリト様の姿に、私は呆然と彼女の背を見つめてしまう。
その背は彼女にしては珍しく曲がっていた。普段ならこんなことはない。ベリト様は姿勢の良い人なのだ。くつろいでいる時以外は、ただ立っている時も、座っている時も、そして作業されている時でさえも、いつだって背中は真っ直ぐに伸ばされている。
だけど今はその背中が曲がってしまっている。それだけでなく、いつもは穏やかな肩が忙しなく不規則に上下もしていた。
それはつまり、呼吸が乱れているということだ。
呼吸の乱れ――。
そこで私はやっと我に返るかのように、目の前の状況を読み込んだ。
「お具合が悪いのですか」
思わず声を上げると、ベリト様は再度「なんでもない」と答えた。それは先ほどより滑らかな口調ではあったけれど、その代わりに苦しげで今にも消え入りそうな声だった。
明らかになんでもないようには見えない――私は慌てて彼女に近づくと、横に回り込んだ。ベリト様は左手で胸を押さえながら、右手で身体を支えるように執務机の端に手をついている。
表情は見えなかった。俯いていて、横髪で顔が隠れてしまっていたからだ。
それでもと私は彼女の顔を覗き込んで――そして息を飲んだ。
「なんでもないことはありません……! お顔が真っ青です……!」
そう、ベリト様の顔は血の気が失せたように蒼白だった。それだけではない。額には汗が滲んでいて表情は苦痛に歪んでいる。そして目尻にはわずかに涙が浮かんでいるのが見えた。
「横になってください」
とりあえず私は身体を支えようと彼女に手を伸ばした――。
「触るな……!!」
けれど大きな声で怒鳴られて、反射的に手を引いてしまった。
――そうだ。
そうだった。
触れてはいけないのだ。
彼女には、触れることができない。
身体を支えることも、安静にできるところまで連れていくこともできない。
それなら、いったい、どうすれば――。
困惑のあまり、私は視線を泳がせる。
泳がせて、先ほど怒鳴られて引いた状態のままであった自分の手に目がいった。
その手は――震えていた。
それがベリト様に怒鳴られて怖かったからとか、そういう恐れから来ているのではないことは分かっていた。
私は――……。
「すぐ……治る……」
ベリト様は苦しそうに呼吸を繰り返しながら、力なくそう言った。
「……だから、それを持って……帰れ」
「ですが」
そんなことを言われても、帰れるわけがない。
こんな状態のベリト様を放っておけるわけがない。
でも、だからといって、私には何もできない。
彼女に触れられない私には、何も――。
その事実に、目の奥がじんわりと熱くなった。
喉が締め付けられ、思わず口をきつく結んでしまう。
震えが止まらない手を両手で握りしめる。
そうして結局は立ち尽くすしかできない私に、再度、ベリト様は言った。
「いいから帰れ……!」
それは怒鳴りながらも、どこか懇願するかのようだった。
それで、分かってしまった。
私がいることを、ベリト様は望んでいないことを。
彼女は私にここにいて欲しくないと思っていることを。
いること自体が、彼女の負担になってしまっていることを。
私が、彼女を、余計に苦しめてしまっている――。
そのことに気づいてしまった私は、逃げるようにその場を離れるしかなかった……。




