大陸暦1975年――07 拒絶1
最後の問題を解き終えると、ペンを置いて右斜め前を見た。
そこには作業机の前に立っているベリト様の姿がある。彼女は姿勢よく作業机に向かいながら、黙々と用紙にペンを走らせている。
私がベリト様に勉強を教えて頂くようになってから一ヶ月が過ぎた。
最初は付きっきりで勉強を見てくださっていたベリト様も、最近ではその合間合間に作業机のほうでお仕事をされたり、他のことをされるようになった。
それが見ているのに飽きたからなのか、手持ち無沙汰になったのか、はたまた教える要領を得たからかは分からないけれど、私としては正直、助かる思いだった。
教えて頂けている時はともかく、暗記したり問題を解いている時にベリト様の視線を感じると、それが気になって少しばかり集中力が削がれてしまっていたから。
彼女に見られていると思うと、どうにも心が落ち着かなくなるから。
「ベリト様。終わりました」
私の声に反応してベリト様はペンを走らせていた手を止めると、こちらを見た。その顔は彼女にしては珍しく、わずかに目が見開かれている。驚いているようだった。
「早いな」
言われて私は壁掛け時計を見る。彼女の言う通り、まだ問題に取りかかってから十分程度しか経っていなかった。いつもは二十分以上はかかるので、今日はおよそ半分の時間で解いたことになる。それは集中したお陰でもあるのだろうけれど、それとは別に今日は区切りということもあるので、もしかしたら知らずうちに張り切っていたのかもしれないと思った。
ベリト様がこちらに来たので、机を挟んで答案用紙を手渡す。それを彼女は受け取ると、文字をなぞるように金色の瞳を素早く動かし始めた。目視で採点をしているのだ。
あとは答えが合っているかだけれど……。
緊張しながら採点が終わるのを待っていると、やがてベリト様は答案用紙から顔を上げて言った。
「間違いはない」
「! では」
「あぁ。これで三年は終わりだ」
それを聞いて、緊張して強張っていた頬が緩んだ。
今解いた問題は、ベリト様が作ってくれた見習い三年の総集問題だった。
これが全問正解できたということは、三年分の治療学の勉強が終わったことになる。これはアルバさんも驚いていたことから、なかなかに進行が早いらしい。
ここまで早く進められたのは、以前アルバさんが話していた通り初期が基礎ばかりだったというのもあるけれど、一番はベリト様の教えかたが上手なお陰だと私は思っている。
それは彼女自身が治療学の理解が深いからだろう。
人に分かりやすく教えるのは、自分が理解していないと難しい。そのことは、ベリト様に言われて彼女に覚えたことを説明したりすることがある私にもよく分かる。
それだけでなく、彼女はとても博識でもあった。
そもそもベリト様の専門は――最近知ったことだけれど――火属性と水属性だ。
治療魔法は水属性と神星魔法の星属性にしかない。つまり彼女は水魔法の治療士ということになり、神星魔法の素養がある私とは別属性、専門外だ。
それでもベリト様はこれまで何一つ問題なく私を教えられているし、疑問にも何でも答えてくれていた。治療学は属性関係なく共通の部分が多いとは聞くけれど、それを抜きにしても彼女は魔法学全般に精通していると思う。
そのことは私の知識が増える度に実感できることだった。
ふと、私は不思議に思った。
彼女はどこでその知識を得たのだろうと。
やはり魔法学院だろうか。この星都で魔法を学ぶには学院が一番らしいと聞くから。
だけど学校に通うベリト様は何だか想像ができない。彼女には学校が似合わない気がする。……自分でも失礼なことを思っているのは分かっているけれど、それでも人に触れられたくない彼女が多くの人の中に混じって勉学に励む姿が想像できなかった。
そうなるとあとは人に師事したとか独学とかなどがあるけれど……と私が想像を膨らませていると、目の前に答案用紙が戻ってきた。
それを受け取った私に、ベリト様が言う。
「お前、睡眠時間とか削ってないだろうな」
その言葉に心臓が、どきり、と跳ねた。
「そんなことは、ありません」
思わずぎこちなく言葉を返してしまった私に、ベリト様は半眼で疑わしそうな視線を向けてきた。
私は目を逸らしたい衝動に襲われながらも、それに耐えて彼女を見つめ返す。
緩んでいた頬は緊張で再び強張り、心臓の鼓動が早くなる。それがベリト様に見つめられているせいなのか、もしくは別のことが原因なのかは判別できなかった。
そうして少しばかり無言の攻防が続いたあと、やがてベリト様は小さく息を吐いた。
「睡眠だけは削るな」
私は追及されなかったことに、ほっ、と胸をなで下ろす。すると遅れてベリト様が気遣ってくださったことへの嬉しさがやってきて、固まっていた頬が再び緩んだ。
「はい。心配してくださってありがとうございます」
締まりのない顔でお礼を口にすると、ベリト様は眉を寄せて、つい、と顔を逸らした。
この一ヶ月、ここでは勉強ばかりで――もちろんそれが主な目的なのだけれど――ベリト様とは親睦を深めるようなお話しをすることができなかった。だから彼女のことはまだ何も知らないと言えるのだけれど、それでも共に過ごしてきて自然と一つだけ確実に分かったことがある。
こういう時、ベリト様が顔を逸らすのは彼女が照れている時だ、と。
「別にお前のためじゃない。お前が体調を崩しでもしたら、私がユイに小言を言われるからだ」
そしてこれも、照れ隠しなのはもう分かっている。
だから私の頬は更に緩んでしまう。ゆるゆるになる。だって嬉しいから。
彼女のその気遣いが、本当に嬉しいから。
きっと満面の笑顔を浮かべている私をベリト様は横目で見ると、すぐに視線を外した。
「今日は終わりだ。少しソファで待ってろ」
「え」
まだ終わるには大分、早い時間だ。
「ユイに届けて欲しいものがある」
「あ、はい」
そういうことかと納得し、私は教本を手に執務椅子から立ち上がった。その場を離れると、私と入れ替わるようにベリト様が椅子に座る。彼女は作業机から持ってきた用紙を机に置くと、ペンを手に記入し始めた。どうやら先ほどから書いていたのは、ユイ先生に渡す書類だったらしい。
それを横目に見ながら、私は言われた通りソファへと移動して腰を下ろす。すると包みこむように身体がソファへと沈みこんだ。
そういえばこのソファに座るのは今日が初めてだ。いや、もしかしたらまともなソファに座ること自体が初めてかもしれない。だからか、その座り心地のよさに私は感動を覚えた。まるで雲のようなふわふわした感触に、待っている間、教本でも読もうと思っていた気が削がれてしまう。更にはカーテンが開け放たれた窓から入り込んでくる心地よい日差しが、その気持ちを助長させてしまう。
修道院はまだ授業中だし自分だけ休んでいるわけにはいかない――そう頭では思いつつも、私の手は一向に教本へと伸びてはくれない。
終いには、意識までもがぼんやりとしてきた。
……先ほど、私は嘘をついてしまった。
実のところ、最近、少しばかり睡眠時間を削っている。
早くみなさんに追いつきたくて、小型の魔灯を借りて就寝時間後に勉強をしている。
だからソファと日差しの心地よさに寝不足も相成ってか、いつの間にか私は眠りへと落ちていた……。




