大陸暦1978年――01 恋の始まり
「おかえり」
仕事部屋から帰宅すると、いつものようにベリト様が温かく迎えてくれた。
「ただいま、戻りました」
その顔を見て、自然と頬が上がるのを感じながら、彼女の隣に座る。そして、ふうと自然に息が漏れた。
「今日はなんだか、疲れてしまいました」
ベリト様が軽く眉を上げる。物珍しいものでも見たかのように。
私がこういうことを口にするのは、初めてだからだろう。
「なにか、あったのか」
心配そうにベリト様が顔を覗き込んでくる。
その優しさに心温まるのを感じながら、私はソファの上にある彼女の手に触れた。
こういう気持ちの伝えかたが良くないことは分かっている。
でも、今日のことを口頭で伝えるのは流石に恥ずかしかった。
ベリト様はそれを視るように目を伏せていたけれど、やがて視線を上げて私を見た。
「ベリト様が、解剖のことを教えてくださったときのように、私は難しく考えすぎていたようです」
「むしろ、なにも考えていなくて、悪い」
ベリト様が申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「私も、こういうことには疎いからな。されて嫌なこととか、して欲しいことがあったら教えてほしい」
「ベリト様にされて、嫌なことなんてないです」
「それは分からんだろ」
「分かります。ベリト様は私が嫌だと思うことはしませんから」
言い切ると、ベリト様が困ったように苦笑した。
「私はお前が思うほど、善人じゃないんだがな」
「そうなんですか?」
「あぁ。今だって悪いこと考えてる」
「なにをですか?」
首を傾げたら、ベリト様の手が頬に伸びてきた。彼女の長い指が、私の頬や髪を撫でる。それが心地よくて意識を傾けていると、彼女の顔が近づいてきた。そのまま、口付けされる。
「こういうこと」
「それは、悪いことですね」
冗談で返して、私たちは笑い合う。
それから遅れて気恥ずかしさが込み上げてきたので、私はそれを誤魔化すために言った。
「早速ですが、して欲しいこと、言ってもいいですか?」
「あぁ」
「次のお休み、カフェに行きたいです」
「そんなことでいいのか」
「そんなことが、いいのです」
眉を上げていたベリト様は表情を和らげると、うなずいた。
「分かった。約束だ。だが、その前に星祭だな」
「そうでした」
「そうでしたって、明後日から準備で泊まり込みだろ?」
「はい。星祭に参加できるのは楽しみですが、ベリト様に一日会えないのは寂しいです」
「私もだ」
すぐに返ってきた言葉に、私は思わず目を丸くして彼女を見てしまう。
以前、ベリト様が竜王国に泊まったとき、私は同じ気持ちを伝えたことがあった。あの時は『私がいなくて変な感じだったと』と、彼女は遠回しにだけど気持ちを返してくれた。
でも今、彼女はまっすぐに自分の気持ちを伝えてくれた。
それが嬉しくてたまらなくて、頬が緩んでしまう。
彼女の存在が、彼女の言葉の一つ一つが、私をこんなにも幸せにしてくれる。
思えばそれは、初めからだった。
初めて会ったときから、私はベリト様に惹かれていた。
それはおそらく彼女が私の心に触れてくれたときに、私も彼女の心に触れたからではないかと思う。
その泣きたくなるほど優しい彼女の心に、私の心はきっと一目惚れをしたのだろう。
この恋は、私がベリト様に心を救われたあのときから静かに、でも確かに始まっていたのだ。
そして、その想いが実り、彼女が私の気持ちを受け入れてくれた今、本当に幸せだなと感じる。
そんな想いに浸りながら彼女を見つめてしまっていると、ふいにベリト様が顔を逸らした。
「ほら、デボラに挨拶してこい」
そう言った彼女の耳は珍しく、本当に珍しくほのかに赤い。
どうやら自分が言ったことに、後から気恥ずかしさが湧いてきたらしい。
「――はい」
そんな彼女を愛おしく感じながら、私は緩みきった顔で仕事部屋を後にした。




