大陸暦1978年――01 恋人とは
遠くで、トントントン、という軽やかな音が聞こえ、目を覚ました。
何度か瞬きをしてから、ゆっくりと上体を起こす。
隣には、昨夜と変わらずベリト様が仰向けで静かに眠っている。端正で凜々しい眉をいつもより緩めて、耳を澄まさないと聞こえないぐらいの小さな寝息を立てている。
その寝顔をいつまでも眺めていたい気持ちに駆られるけれど、今日はお仕事があるのでそうもいかない。
私はそっとベッドを抜け出し、シーツを彼女にかけ直してから部屋を後にした。
自室で身支度を整え、一階の厨房へと向かう。厨房に近づくにつれ、朝食の準備をする音が鮮明になる。朝に聞こえた律動的な音は、彼女が食材を切っている音だ。
生活音で目を覚ますのは、どこか温かな幸せを感じる。それはきっと遠い幼き日にも、その経験があるからだろう。とはいえ、食材を切る音で目覚めるのは、いつもより起床が遅かった証拠でもある。だから、私は足を速め、手に持ったエプロンを身につけてから厨房へ足を踏み入れた。
「デボラさん。おはようございます」
石窯のそばに立っていたデボラさんが振り返り、柔らかく微笑む。
「フラウリア様。おはようございます」
「すみません。遅くなりました」
「謝られる必要はありません。私としては、平日の朝ぐらいはゆっくりしていただきたいぐらいです」
「そういうわけにはいきません」
平日の朝食のお手伝いと休日の食事の準備は、私が唯一許されているお手伝いだ。普段、家事をデボラさんに任せっきりだからこそ、その機会を逃すわけにはいかない。
「フラウリア様は真面目ですねえ」デボラさんはくすっと笑うと、コンロに目を向けた。「では、アク取りをお願いできますか」
「はい」
私は火にかかってる鍋に近づき、アク取りを始める。アク取りは、スープ料理には大事な作業だ。これを丁寧に行なう行なわないとでは、スープの味は大分変わってしまう。だから、私はアクをひとつも見逃さないよう、集中して作業を進める。そうしていると、ふと横から視線を感じた。
見ると、デボラさんがにこにこ顔でこちらを見つめている。
「どうかされましたか」
「いえ。お元気になられてよかったなと思いまして」
お元気に――その言葉に、私ははっとした。
「気付いて、らしたんですか」
ここ数日、私がベリト様のことで悩んでいたことを。
「はい」
デボラさんはにっこりと微笑んで肯定する。
どうやらベリト様やアルバさんだけでなく、デボラさんにも見抜かれていたらしい。
私としてはいつも通り振る舞っていたつもりだったのだけれど……つくづく、自分には隠しごとが向いていないのだと実感させられた。
「すみません。ご心配かけて」
「いいんですよ。ただ、お一人で悩み続けていると、思考が袋小路になってしまいますから、どうか今後は一人で悩みを抱え込まず、誰かに相談してくださいな。ベリト様も、アルバさんも、ユイ先生も、ルナ様も、喜んで話を聞いてくださいますから。もちろん私も」
「はい。ありがとうざいます。私、幸せものです。いい人たちばかりに恵まれて」
「それは、フラウリア様が素敵な方だからですよ。ほら、類は友を呼ぶと言いますでしょう?」
そう言って、デボラさんは「あ」と小さく声を上げ、口元に手を当てた。
「そうなると私も素敵ということになっちゃいますね」
「間違いないと思いますが」
「あらあら」
デボラさんは笑うと、石窯をちらりと確認した。厨房には、パンが焼かれるいい香りが漂っている。
まだ焼き上がりには少し時間があるようで、彼女は再びこちらに視線を戻した。
「それにしても、仲睦まじい方々を見ていると、私も恋人が欲しくなりますねえ」
「以前は、おられたのですか」
「えぇ。随分と前ですが」
「デボラさんなら、すぐに素敵な方が見つかりますよ」
思わず拳を握り、熱を込めて力説してしまう。だって、本当にそう思っているから。お綺麗で、優しくて、お料理も上手で、こんなに素敵な人はいないって。
「あらあら、お上手だこと」
デボラさんはふふっと笑うと、こちらに近寄り鍋を覗き込んだ。
「丁重にありがとうございます。こちらはもう大丈夫ですから、ベリト様のところに行ってらしてくださいな」
「はい」
あまりお手伝いができなかったことに物足りなさを感じたけれど、今日は遅くに起きてしまったし、そう言われた以上は仕方がない。もっとお手伝いをしたいだなんて我儘を言っても、優しいデボラさんを困らせてしまうだけだ。
エプロンをたたみ、厨房を後にする。それからベリト様の気配を探った。
最近、一緒に寝た翌日の朝食も、ベリト様は一緒に食べてくれる。だから、起こしに行こうかと思ったのだけれど、今日はもう起きているようだ。部屋にある気配が動いているので、身支度をされているのだろう。
起こす必要がなくなって残念、と私は温かく思った。
ベリト様が寝ているときに部屋に入れるのも、直接彼女を起こせるのも私だけだ。だから、それができないのは残念に感じてしまう。でも、今日はお仕事前に一緒に過ごせるのだし、それだけでも幸せなのだから、そんな我儘をたしなめてそっと胸にしまいこんだ。
私は少し考え、ベリト様の部屋へ向けて歩き出した。居間で待っていてもいいけれど、今日はその時間も惜しいと感じたので迎えに行くことにする。
「~♪」
ベリト様と朝を一緒に過ごせることが嬉しくて、つい星歌を口ずさみながら歩いていると、ふとデボラさんが先ほど口にした言葉が頭をよぎった。
『それにしても、仲睦まじい方々を見ていると、私も恋人が欲しくなりますねえ』
仲睦まじい方々――私は先ほど、それはユイ先生とルナ様のことを指しているのだと思っていた。だって、私たちの周りで身近な『仲睦まじい方々』は、間違いなくあのお二人だから。
でも、よくよく考えてみると、その場合『それにしても』という前置きがされるだろうか。
話の流れからして、その『仲睦まじい方々』には、私とベリト様も含まれているのでないだろうか。
いや、きっとそうに違いない。
つまり、デボラさんは気付いているということだ。
私とベリト様の、関係に。
私とベリト様が、恋人関係になったことに――。
その考えに至った瞬間、顔がかっと熱くなった。その熱にいても立ってもいられなくなり、胸に抱いた折りたたんだエプロンをぎゅっと握りしめてしまう。
なにをどうして、デボラさんに気付かれたかということはとりあえず、今は置いておいて。
そう。そうなのだ。
私はベリト様と、こ、こ、恋人になったのだ。
その事実が今さら胸に込み上げてきて、羞恥心で落ち着かない気持ちになる。
この数日の出来事が次々と蘇り、顔の熱がさらに高まる。
私はその熱を振り払うように頭を振ると、止まってしまっていた足を踏み出した。
自然と早足で歩きながら、それにしても、と思う。
それにしても、こ、恋人って、なにをするのだろう。
これまで通りで大丈夫、なのだろうか。
当り前だけど、今まで誰かとお付き合いをしたことがないから、こ、恋人の振る舞いなんて全く分からない。それに関する知識といえば、恋愛小説ぐらいだ。でも、あれは夢を詰め込んだ作りごとで、現実がそうではないことぐらい、私も分かっている。そう、分かってる。
現実の、こ、恋人というのは、どのような感じなのだろうか。
それこそルナ様とユイ先生に訊けば早いのだろうけれど、恥ずかしくてそんな勇気はとても出せない。でも、こ、恋人の常識を知らないことで、ベリト様を幻滅させてしまわないかと不安にもなる。
胸の中でぐるぐると羞恥と不安が入り交じりながら歩いていると、廊下の風景ばかりを映していた視界に、白と黒が飛び込んできた。
黒く細身のズボンに、白いシャツを身につけた人の姿。
立ち止まり見上げると、そこにはベリト様の顔があった。
「ベ、ベリト様」
「どうした」
「え」
「顔が、リンゴみたいになってるぞ」
思わず手で頬に触れる。先ほどより火照りが収まったとはいえ、手のひらに感じる体温は熱い。
「え、と、厨房が、暑くて」
「厨房ね」
ベリト様の口端がわずかに上がる。これは……誤魔化していると気付かれている顔だ。
そのまま彼女は私をじっと見つめると、ふっと柔らかく笑った。
「ほら、居間に行くぞ」
そう言って、私の横を通り過ぎて歩き始める。
「あ、はい」
私は慌てて踵を返し、彼女の横に並んだ。
居間に辿り着くと、ベリト様はソファに腰を下ろした。
私もいつも通り、彼女の隣に座る。そのときふと、私とベリト様との隙間が目に入った。
その隙間は、手のひら一つ分ほどしか空いていない。最初はもう少し距離を空けて座っていたはずなのに、その距離はいつの間にか縮まり、今ではこの距離感が当り前になっている。これはベリト様のそばにいたいという気持ちが表われた結果、なのだろうか。……いや、きっとそうなのだろう。私のことだから。
そのことをこれまで気にしたこともなかったけど、この距離感は適切、なのだろうか。
むしろこれまで、こ、恋人でもないのに、近すぎたのではないだろうか。
こ、恋人の正しい距離感って本来、どれくらいなのだろうか。
そんなことを頭でぐるぐる考えていると、ふっと鼻で笑う音が聞こえた。
「なんでかしこまってんだ」
「え」
ベリト様に言われて自分を見ると、いつの間にか膝の上に拳を握り、背筋をぴんと伸ばして座っていた。
「なんと、なく」
「なんとなく?」
返答に困りそう答えると、ベリト様がふっと笑った。
「変な奴だな」
そう軽く流してくれたところで丁度、デボラさんが飲み物を持ってきた。
ベリト様の意識がそちらに向き、私はほっと胸を撫で下ろす。
その後はベリト様が話題を振ってくれたおかげで、なんとかいつも通りの会話ができた。
それでも、その間も私の頭の片隅では『恋人とは?』という疑問がずっとくすぶって消えなかった。




