大陸暦1978年――17 尊い時間
夜に染まった景色の中を、外灯の明かりが次々と通り過ぎていく。
中央教会からの帰り道、車窓を見ていた私はポケットから懐中時計を取り出した。普段はもう家に到着している時間を、時計の指針は指している。今日はフラウリアが夕食を食べずに待っているので早く終わらすつもりだったのだが、解剖後に新米死検士と話をしていたらこんな時間になっていた。
以前は解剖中以外に若い死検士に話しかけられることは滅多になかった。打ち合わせや私とのやり取りは全て死検士長か熟練死検士が行なうからだ。それがなぜか最近はちょくちょくと若い、得に女の死検士に話しかけられることが多くなった気がする。その内容は仕事――解剖学や魔法学に関する質問や相談がほとんどだが、稀にたわいのない雑談を振られることもある。
セルナに言われてやっていることとはいえ、これも一応は仕事だ。雑談はまだしも仕事に関してのことならば私も蔑ろには出来ない。それに正直、興味ある分野の知識がある人間と話をするのも嫌いではない。それでも今日ほど応対しながら気がそぞろになったことはなかった。
馬車の震動が座席から伝わる。いつもは疲労感を感じる仕事の帰り道も、今日は妙に心地が良い。気持ちも枷がなくなったように軽く、ここ最近の落ち込みようが嘘のようだ。
こんなことなら早く自分の気持ちを伝えておけばよかったと思ったが、こんなことでもない限りそれは無理だっただろう。
車窓に見慣れた景色が流れるのを見ていると、やがて自宅前で馬車が止まった。
馬車から降り、御者から小型のトランクを受け取る。それから玄関に入ると、フラウリアとデボラが待っていた。
「おかえりなさい。ベリト様」
「おかえりなさい」
笑顔のフラウリアに、デボラがあとに続く。
その顔を見て思わず口許が緩みそうになるがデボラの手前、我慢した。
「ただいま」
「すぐお夕食の準備をしますので、少々お待ちくださいな」
デボラは私からトランクと外套を受け取り、ぱたぱたと小走りで奥へと消える。
それを見送ったあと、私たちも顔を見合わせてから歩き出した。
「お腹、空いただろ」
「はい」フラウリアは素直にうなずいた。
「待たなくても良かったんだぞ」
「でも、今日はベリト様と一緒に食べたかったから」
実のところ私もそう思っていたのだが、それを認めるのは気恥ずかしかったので「そうか」とだけ答えておいた。それでもフラウリアは嬉しそうに「そうです」と笑った。
居間で軽く話をしながら待っていると、幾分かしないうちにデボラが呼びに来た。いつも準備が早いデボラだが今日は格段に早い。今日はフラウリアも夕食がまだだということで急いだのだろう。
今日の夕食は海鮮パスタやカルパッチョなど、海の幸に関連するものだった。それをフラウリアは美味しい美味しいと言いながら笑顔で食べていた。ここ数日こいつは普通を装っているつもりだったのだろうが、笑っているその顔はどことなくぎこちなかった。それにはもちろんデボラも気付かないわけもなく、だから自然体に戻ったこいつにデボラだけでなく私も思わず頬が緩んだ。
私もここ数日は気持ちが重くてなにを口にしても食べた気がしなかったので、今日の夕食は格別に美味しく感じた。その所為でフラウリアの『美味しいですね』という言葉にいつもなら『そうか』と答えるところをつい『そうだな』と肯定してしまい、デボラがまるで蘇った死人でも見たぐらいの驚愕の表情を浮かべていた。
今日は帰りが遅かったこともあり、夕食が終わると私は急いで風呂を済ました。それでも自室のソファにフラウリアと並んで座ったころには二十二時前になっていた。
フラウリアは待ちかねたとでも言うように前のめりで今日の出来事を話した。
星霊堂に初めて入ったこと、私がいて驚いたこと、今日は休憩に紅茶と菓子が出て各地から集まった修道女と話す機会があったこと、アルバが相変わらず女にもてていたこと、そして新しい二人の友人――とフラウリアは表現していた――についても。
どうやらフラウリアを惑わした神家のお嬢さんは私に興味があるらしい。
「それでオレリアさん、星祭が終わったらお家に招待してほしいと仰っていました」
「図々しいヤツだな」
思わずため息が出ると、フラウリアが顔を覗き込んできた。
「お招きしては駄目ですか?」
無垢な顔でそう訊いてくる。ここ一週間、そいつの所為で随分と心をかき乱されたというのに、まるでそんなことがなかったような顔だ。まぁ、こいつは人を恨むことを知らないかららしいと言えばらしいが。
「いや、お前がしたいようにすればいい」
オレリアとやらも今回のことに関しては謝罪もしたようだし、話を聞く限りでは悪人というわけではないだろう。私は関わりたくない人種ではあるが。
「だが分かっているんだろうな」
「え?」
「そいつは私を目当てに来るんだぞ。お前はそのことについてなにも思わないのか」
フラウリアは目を瞬かせている。……鈍い。
「ほら、花屋の、息子のときみたいに」
口に出して、あの時の気恥ずかしさが蘇った。
やっと合点がいったのか、フラウリアの口許から笑みが零れる。
「嫉妬、したほうがいいですか?」
「いや、訊かれてもだな……」
フラウリアが小さく笑う。
「私はベリト様を信じていますから」
「そのわりには神家のお嬢さんの言うことに随分、翻弄されてたいじゃないか」
「それは言わないでください」
恥ずかしげに慌てるフラウリアに私は笑う――笑って最後には苦笑が漏れた。
「まぁ、それは私も同じだがな」
「え」
「お前が手紙を貰う度に、私の心はいつも平穏でいられなかった。お前を信じてなかったわけではないのだが、やはり不安には感じていたのだと思う」
そう。心が重かったのは不安の所為だ。
いつかこいつがどこかに行ってしまうのではないか。
手の届かない場所へと行ってしまうのではないか。
この幸せを手放すときが来るのではないか。
それを私はこいつが手紙を貰う度に感じていた。
だが――。
「今はもう大丈夫だ」
想いを伝えた今なら。
想いを受け取った今なら。
フラウリアは目を見開くと、笑った。
「私もです」
微笑んだフラウリアの顔に自然と手が伸びる。
その頬に手を添えて、私は引き寄せられるように口づけていた。
これまではこいつの反応が面白くてしていたそれは、今日は全く違ったものに感じた。
たかが唇の接触だというのに、とても尊い行為のように思える。
脈音がうるさく、全身に血流が巡るような感覚を覚える。
離れるとフラウリアの頬は赤く染まっていた。
その顔のままはにかんで、ソファに背を預けて寄りかかってくる。
「……寝る時間だぞ」
「はい。でも、もう少しだけ」
素直に反抗してフラウリアは目を閉じた。
その反抗を受け入れない理由は今の私にはない。
どうせ今日は一緒に寝られるのだが、それでもこの時間をもう少し味わっていたい。
手に触れると、フラウリアは受け入れるように手を開いた。
自然と指を絡めて手を握る。
触れた部分から感情が流れ込んでくる。
私は目を閉じて、その心地良い感情に心を委ねた。




