大陸暦1978年――17 心の全て
中央教会へお手伝いに行ってから一週間が経った。
時間が経てば少しでも気持ちに変化が訪れるかとも思っていたのだけれど、相変わらず私の気持ちは重く心も晴れない。それも当然といえば当然だ。私はベリト様から逃げ続けるばかりで、問題はなにも解決していないのだから。
その間、ベリト様といえばいつも通りだった。これまでと変わらず私の気持ちや行動を尊重してくれている。この一週間、不自然に早く寝たがる私に対して問いただしてくることもない。
私の様子がいつもと違うことは、流石にベリト様も気付いているはず。それなのになにも訊いてこないのは彼女が優しいからだ。もしくは私から話すのを待っているのかもしれない。
おそらくここ数日、私に触れようとしてこないのはそのことがあるからだろう。私が話す前に記憶を視ないようにと配慮して――。
私だって確かめたほうが早いことは分かっている。
こうして一人、出口のない迷路で気持ちをぐるぐるさせるぐらいなら、訊いたほうが早いと。
だけど、どうしても決心がつかない。
それを訊く勇気が持てない。
だってそれを訊いてしまったら――。
「フラウリア」
はっとして私は俯いていた顔を上げた。視界には見慣れた景色が映っている。ベリト様の自室だ。そして私はソファに座っている。手元のざらりとした感触に視線を下げると、膝には開いた本が置かれていた。
「大丈夫か」
また声がして私は横を見上げる。そこにはベリト様がいた。彼女はそばに立ち、私の顔を覗き込むように見ている。乾きたてのさらさらな黒髪と、彼女から伝わる熱気で私は状況を理解した。
お風呂から上がってここに来たら、ベリト様もお風呂に入っていたので私は本を読んでいたのだ。そして今日も彼女がお風呂から上がる前にベッドに入ろうと思っていたのだけれど、どうやら考えごとをしていてその機会を逃してしまったらしい。
失敗したと感じながらもとりあえずは言葉を返さなければと思い、私は微笑みを作る。
「大丈夫です。少しぼんやりしていて」
そう答えてから、思いついた私は続けてそれを口にした。
「疲れたのかもしれません。明日は中央教会へ行きますし、今日も早めに寝させていただきますね」
この流れならば不自然ではないだろう。
なんとかこの場を切り抜けられそうだと安堵しながら閉じた本をそばに置くと。
「寝られないのにか」
ベリト様が隣に座りながらそう言ってきた。
その言葉に私の心臓は大きく跳ねる。
彼女の言うことが本当だったからだ。
そう。この一週間、早くベッドに入っているにも関わらず、私の睡眠時間は減っていた。
考えごとをしてしまって、どうしようもない眠気が襲ってくるまで眠れなかったからだ。
でもそれを認めては、ベリト様にいらぬ心配をかけてしまう。だから私は嘘を、ついた。
「そんなことはないです。ちゃんと寝ています」
「それならこの目はなんだ」
ベリト様が手を伸ばしてくる。目元に微かに出来たクマに触れるように。
だけど私は反射的に身を引いてそれを避けた。そしてはっとする。
彼女の目がまるで痛みを感じるかのように歪んだからだ。
それを見て、私はいったいなにをしているんだろうと思った。
彼女にこんな顔をさせたいわけではないのに……。
ベリト様は手を引くと視線を落とした。傷つけてしまったと強い後悔が襲ってくる。いやそれだけでなくきっと怒ってもいる。私が嘘をついたから。
だけど予想に反して、再び視線を上げてこちらを見た彼女の顔には怒りも、痛みも浮かんでいなかった。
ただ真剣な表情で私を見ている。
「フラウリア。お前が視せたくないものがあるのならば、私はもうお前に触れない。お前のその気持ちを侵したくはないから」
強く、胸が締め付けられるのを感じた。
そんなのは嫌だと、彼女に触れてもらえないのは嫌だと、心が叫ぶように。
「だが、それが自分のためではなく、私のためにそう思っているのならば隠さないでほしい」
ベリト様が手を差し出してくる。
「お前がなにを感じ、どんなことを思っていたとしても、私は受け止めるから」
私はその手を見て、ベリト様を見る。彼女は小さくも優しい顔で微笑んでいる。
こんな自分勝手な私に、ベリト様は歩み寄ろうとしてくれている。
全てを受け止めようとしてくれている。
その彼女の優しさに、臆病になっていた気持ちが動く。
自分の手が、彼女の手に吸い寄せられるように伸びる。
そして躊躇しながらも、勇気を出してその手に触れた。
するとベリト様は私の手を握って、《《それ》》を視るように目を伏せた。
私はその様子を、落ち着かない気持ちで見守る。
今日ほど彼女に視られて、不安でいっぱいになったことはない。
だけどそれと同時にその手の温もりに安心も覚える。
その相反する気持ちが渦巻くまま待っていると、やがてベリト様が目を伏せたまま口を開いた。
「お前も知っての通り、私は人の愛情を知らない。両親に愛されたことがなく、両親から与えられた偽りの愛しか知らないから。
だが、そのほかの感情なら知っている。父親に捨てられたときに感じた絶望や不安や諦観。壁近という場所で暮らす中で感じた恐怖や嫌悪や同情や……殺意。これまでお節介な奴らと関わることで人の親切を知り、人を、信頼することも覚えた。
そしてお前と出会い共に過ごす日々の中でも様々の感情を知った。そのお陰でこの国に捨てられて今まで、一通りの感情を体験してきたとは思う。それでもまだ分からない感情が私の中にはあった。それはお前と共にあることで膨らんでいった」
優しく握られた手に少し力が入る。
「私が知らない感情。それがなにかは自ずと分かっていた。自覚も、あった。それでも今まで言えなかったのは……そうだな、お前に甘えていたのだと思う。口に出さなくとも大丈夫だと。それだけでなく、それを口にすることで今が変わってしまうことも恐れていたのだろう。この穏やかな毎日に変わってしまうことが、お前と過ごす日々が壊れてしまうのが。ただ、私は――」
一拍、置いてベリト様は言った。
「お前がそばにいてくれるだけで幸せだったから」
その言葉に泣きそうになる。
彼女がそう思ってくれていたことが嬉しくて。
私と同じように感じてくれていたことが嬉しくて。
「その勝手な想いが、お前を不安にさせてしまったことは悪かったと思っている」
ベリト様は握った手を両手で包むと一度、目を閉じて私を見た。
金色の瞳が、夜空の星のような瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「フラウリア、私はお前を愛している」
その言葉は、これまで彼女から聞いたどの言葉よりも、心が震えた。
そこから感情が溢れ出し、全身へと広がっていく。
込み上げた感情で視界が滲む。
「――ごめん、なさい」
涙と一緒に零れた言葉に、ベリト様が困ったように笑った。
「なんで謝るんだ」
「だって、私だって……言えなかったのに」
私は両親に愛されたことがあるから、愛し合う二人を見て育ったから、愛というものがどんなものか分かっていた。
ベリト様に――恋していることも、最近はもう自覚していた。
それなのに私は自分から気持ちを伝えることも、ベリト様の気持ちを確かめることも出来なかった。
怖かったのだ。
彼女に拒絶されるのが。
それで今の幸せな生活が壊れてしまうのが。
それだけでなく私の想いで、優しいベリト様を困らせたくもなかった。
それなのに勝手に不安になって、それをベリト様の所為のようにして、ベリト様を避けて、ベリト様を傷つけて――。
「今も言えないのか」
溢れる涙を拭いながら、ベリト様が優しく訊いてくる。
私は首を振る。
その頬にある暖かい手に触れて、伝える。
私の気持ちを。
ベリト様が私の心に触れてくれたときに、
私の心を救ってくれたときに生まれた、
そして彼女と過ごす日々で育まれていった私の全てを――。
「私も、愛しています」
ベリト様はこれまで見たことのないぐらいに破顔させると、私を抱き寄せた。
彼女の温もりに包まれて安堵感を覚える。
これまでに感じたことのない幸福感に満たされる。
それでも私の涙は止まらなかった。
彼女の胸の中で、私は泣き続けた。
だけどそれは悲しい涙ではなかった。
それだけは、確かだった。




