大陸暦1978年――16 選択
「へぇ、ルドレシア伯爵の妹さんをお弟子さんに」
夕方前に帰宅した私たちは夕食までの時間、居間で今日のことをデボラさんに話していた。
「まだ受けたわけじゃない」
隣で腕を組み、ソファに背を預けたベリト様が不機嫌そうな顔で答える。
その様子に私とデボラさんは見合わせて笑うと、彼女が用意してくれた紅茶を一口飲んだ。アオユリ様のお家で飲んだ紅茶も美味しかったけれど、やはりお家で飲む紅茶が一番美味しく感じる。きっと味には安心感も含まれているのだろう。
「ということは考えてはいらっしゃるのですね」
デボラさんの言葉にベリト様は益々眉を寄せると、姿勢を正して紅茶を飲んだ。どうやら図星だったらしい。どんな気が進まないことでもきちんと考えるところが真面目なベリト様らしくて微笑ましくなる。
「でも、お一人ぐらいお弟子さんを育てておくのは、ベリト様にとっても悪い話ではないのではありませんか?」
「なんで」
「ほら、ルナ様とルドレシア伯爵はいずれ魔法学院でも解剖学を教科に組み込むよう動いてらっしゃるのでしょう? そのときにもう一人解剖学者がいればベリト様が教師をする必要はなくなるのではないかと」
「その前にそんなの私が引き受けるわけないだろ」
「相手はあのルナ様ですよ? お断りする自信あります?」
ベリト様が口をつぐむ。その様子から自信はないらしい。
ルナ様は強いなあと、私は一人笑う。
「まぁ、妹さんもまだ完全に回復されていないようですし、今すぐということではないんですよね?」
ベリト様は答えなかったので代わりに私がうなずく。
「でしたらそのことも踏まえて考えてみてはいかがでしょうか」
デボラさんはそう言うと、「ごゆっくり」と言って居間を出ていった。
それを目で追っていたベリト様が、扉が閉まると息を吐いてまたソファに背を預ける。
「気が進まないですか?」
そうだと分かりつつも私は訊いた。
ベリト様はちらりとこちらを見たあと、不機嫌そうな顔を和らげる。
「子供は苦手だし、教えるのも面倒だ」
「でもカイさんには教えていたじゃないですか」
そう。そのカイさんは見事、士官学校特選入学に受かり今年から晴れて士官学生だ。
そのお祝いを去年の終わりにカイさんのご家族をご招待してしたのだけれど、そのとき剣を教えたデボラさんだけでなく、勉強を教えたベリト様もカイさんとお父さんにしきりにお礼を言われて困り果てていた。
「アイツはまだ地頭も聞き分けもよかったからな」
「イリアさんもそうかもしれませんよ」
私は今日のことを思い出す。
ベリト様を紹介されたときのイリアさんの顔を。
あのときベリト様を真っ直ぐに見つめる彼女の目には、憧憬が浮かんでいた。
「なんだ。受けてほしいのか」
「そういうわけでは。でもベリト様、教えるのお上手ですから」
「……そうか?」
「そうですよ。私が早くに勉強が追いつけたのも、カイさんが受かったのもベリト様のお陰です」
「カイはともかくお前は――」
そこでベリト様は言葉を止めると「いや、なんでもない」と言った。
「だがまぁ、デボラの言うことも一理ある」
「私としては、教壇に立たれるベリト様も見てみたい気がしますけれど」
「絶対にお断りだ」
そう言ったベリト様がどことなく拗ねる子どもの様に見えて、私は頬が緩んだ。
そこでふと思う。
「そういえばベリト様。どうして私には勉強を教えてくださったのですか」
子供も苦手で教えるのも面倒で、さらには今よりも人を避けていたのに。
「もしかしてユイ先生がお願いしてくださったのですか?」
「いや……されていない」
「それでしたらどうして」
ベリト様は横目でこちらを見ていたけれど、やがて正面を向いた。
「最初は、分からなかった。自分でも何故、あんなことを口走ったのか」
そこで彼女は一度、口を閉じてから話を続ける。
「私の力で視える記憶は、記憶者が目を通した世界のみだ。たとえ私がお前の記憶を持っていたとしても、お前自身の姿が見えるわけではない。鏡に映った顔も、私自身が見たものではない。だから初めてお前が課題を持ってきたあの日まで、私がこの目で見たお前はセルナが連れて来たあのときだけだった」
ベリト様の眉根が寄る。どこか痛みを感じるように。
ルナ様は以前、心を壊した私を安らかに死なせてあげてほしいとベリト様にお願いしたと話していた。彼女が言っているのはきっと、そのときのことだろう。
「それもあったからもっと、見てみたかったのだと思う。元気なお前の姿を」
ベリト様は目を伏せてそう言うと、やがてふっと笑みを零した。そしてこちらを見る。
「その結果、お前には随分と振り回された」
まさにその通りなのでなにも返す言葉がない。更には以前の私の無謀な行動を思い出し反省する気持ちになっていると「だが」と彼女が言った。
「しかしそれを経て今があるとするのならば、その選択をしたあのときの自分を褒めるべきだろう」
「ベリト様……」
彼女は一度目を閉じると、姿勢を正してこちらに身体を向けた。それから私の手を取り、開いた手で手の甲に触れる。
「傷、治ってよかったな」
それから改めてそう言った。
「――はい」
微笑んでうなずくと、彼女も柔らかく微笑み返してくれた。




