大陸暦1978年――14 幸せな毎日
「お帰り」
気持ちの良い疲労感を感じながら帰宅すると、ベリト様が迎えてくれた。
「ただいま戻りました」
私は仕事部屋の扉を閉めて、いつものように彼女の隣に座る。
「最近は早いな」
ベリト様がそう言ったのは、ここ一月、新しく入った子の世話でいつもより戻りが遅くなることが多かったからだ。
「はい。みなさん大分、修道院の生活に慣れてくれましたから」
「そうか。まぁ、環境が変われば最初は戸惑うよな」
正面を向いたベリト様が、どことなく遠い目をする。
「……ベリト様もそういう経験が、あるのですか?」
彼女がなにを見ているのか、私には大方の想像がついていた。
でも想像ではなくはっきりと彼女のことが知りたくて、訊いてもいいものか迷いつつもそう口に出してしまっていた。
ベリト様も私の気持ちに気づいたみたいで、こちらを見て小さく苦笑する。
「あぁ。壁近に住むようになったときにな。私はいい生活から不自由な生活に落とされたからルコラの見習いとは逆にはなるが」
やはりと思う。彼女は貴族だったから、なおさらに壁際の状況には戸惑ったことだろう。
「初めて壁近を見たときはこんな場所があるのかと驚いたよ。幽閉される前は都市に行ったこともあったが、綺麗なところばかりだったからな」
その気持ちはわかる。私も修道士様に連れられて初めて壁区から出たときは、世界が違い過ぎて驚いたから。……そう。そこまでの記憶は私の中にはある。だけどそれ以降の記憶が私にはない。
修道院に入って自分がどうだったのか、その生活でなにを感じたのか、私にはわからない。その記憶はベリト様が持っているから。
「私も、そうでしたか……?」
ベリト様はまたこちらを見ると、先ほどと同じく苦笑した。
「そうだな。でもお前は適応力があるし真面目だからな。新しい環境にもすぐに馴染んでいた」
「そうですか。……すみません。訊いてしまって」
ベリト様のために、私の記憶で彼女を苦しませないために、過去のことはもう振り返らないと決めたのに。それなのにまたもや訊いてはいけないと思いながらも、知りたい気持ちを抑えられなかった。だってそれを知ることができたら、前の修道院の先生に少しでも心からお礼が言えるかもしれないと思ったから。
でもどんな理由があったとしても、今のはよくなかった。
自分の気持ちを優先してしまったことを一人反省していると、ベリト様が微笑んで首を振った。
「いや、知りたいと思うのは当然だ。お前にとっては大事な記憶だからな」
それは、不思議と私にもわかる。記憶がなくとも、前の修道院での記憶が自分にとって大事なものだったということは。
そしてベリト様がそう理解してくれていながらもその記憶を持っていったのは、私を救うにはそうせざる得なかったからだ。それは訊かずともわかる。確信している。
それなのに私がいつまでもその記憶に未練を持っていては、ベリト様が気に病んでしまう。私のために止む得ずしたことでも、絶対に責任を感じてしまう。だって彼女は、優しい人だから。
私は彼女にそんな思いはしてほしくない。だからもうそのことは忘れよう――そう決意したとき、ベリト様が一人、うなずいた。
「そうだな。これから一緒に寝られるときは少しずつ話そうか。前の修道院の記憶を」
まさかの申し出に私は驚く。
「もちろんお前が知りたければ、だが」
それは正直、願ってもないことだけれど。
「でも、ベリト様がお辛くなりませんか」
彼女が体調を崩さないかが心配だ。
「それはやってみなければわからない。だが、先ほども言ったとおりその記憶はお前にとっては大事なものだ。口頭でも可能な限り、返していきたい」
それに、とベリト様は言うと私の右頬に触れた。
「お前がいればきっと、大丈夫だ」
私は頬にあるベリト様の手に自分の手を重ねる。
彼女のその気持ちが、彼女が触れてくれるのが、すごく嬉しい。
「ほら、そろそろデボラに挨拶に行ってこい」
手を離しながら気恥ずかしそうにベリト様が言った。
「はい」
私の感情を視て照れたのかなと微笑ましく思いながら、ソファから立ち上がる。
それにベリト様も続くと外側の入口へと向かった。そして扉の鍵をかける。戸締まりをして居間に向かうのだ。彼女がここにいてくれるのは、私のためだから。大通りでアルバさんと別れてここまでの道のり、もし私になにかあったら駆けつけてくれるために。だから私が帰ってきたらここにいる理由はない。
一緒に過ごせるだけでも私は幸せなのに、彼女は私のために行動してくれる。
それだけでなく昨年末からは自分から私に触れてくれるようにもなった。
私に触れられるようになった。
それが嬉しすぎて、幸せで、頬があがってしまう。
「なに突っ立ってニヤついてるんだ」
苦笑したベリト様にそう言われた私は我に返ると、頬に熱が上がるのを感じながら慌てて廊下に出た。




