大陸暦1977年――12 その夜2
「それでしたらベリト様もユイ先生の星歌を聴かれたことがあるんですね」
「お前もあるだろ」
いつぞやかあいつらが夕食を食べに来たときも歌っていたし、そもそもユイから歌を教わっているのだから。
「そうですけど、中央教会の大きな礼拝堂で聴くユイ先生の歌はもっと素敵だろうなと思いまして」
確かに中央教会の礼拝堂は音響が良いし、星祭では主旋律を担当する一等星歌士であるユイには多くの星歌士や楽器が伴奏に付いている。それを星祭で初めて聞いたときはその壮大さにガラにもなく感動を覚えたものだ。……と言いつつも今の今までそれを忘れていたのだが。
そういえば最近、言われるまで忘れていたということがたまにある気がする。
これまでは昔のことだしとたいして気にしてはいなかったが、もしかしたらフラウリアの記憶を引き受けたことが原因にあるのかもしれない。あいつの五年近くの記憶を一気に引き受けてしまったわけだから、それまで私の中にあった自分の記憶が奥に追いやられても不思議ではない。
だがそれも一時的なものだ。記憶とは時が経つにつれて薄れていくものだし、それは自分の中で優先順位が低いものほど早い。ましてや自分のものではない記憶ならばなおさらにそうだ。なのでフラウリアの記憶もいずれ薄れて思い出せなくなるだろう。昔に引き受けた記憶がそうであるように。
それが悪い記憶だけならばそれでもいい。だが、その記憶の中にはフラウリアの修道院時代の記憶がある。心を壊した記憶がそれらを穢していて引き受けざるえなかった、五年近くの穏やかな生活の記憶が。
私にとっては意味のない記憶でも、フラウリアにとっては大事な記憶だ。それを私の中で薄れさせていくのもなんだかなと思う。いつか鮮明に思い出すのも困難になる前に、こいつに返してやることはできないだろうか。
直接、記憶を返すことは能力としても不可能だが、口頭だけでもどうにか――。
「ベリト様?」
呼びかけられてはっとする。
「どうかされましたか?」
どうやら少し考えにふけっていたらしい。
「悪い。昔、星祭に行ったときのことを思い出していた。確かにお前の言うとおりだなと思ってな」
「そうですか。私もいつかお休みが重なったら行きたいです」
「来年には行けるんじゃないか」
「え」
「毎年、星祭の準備や片付けに、仕事に慣れてきた新人二年目が集められると聞いたことがある。それが本当ならばお前たちは来年だろ」
「そうなんですか。それは楽しみです」
両手のひらを合わせてフラウリアは笑うと、すぐに次の話題を切り出した。
「ベリト様とアオユリ様は長いお付きあいなのですか?」
「そうだな……八年ぐらいにはなるな」
「そうなんですか。アオユリ様、お綺麗なかたで驚きました。もちろんベリト様もユイ先生もルナ様もお綺麗ですけど、アオユリ様はなんというか、貴族様って感じがします」
無理に私を入れなくてもいいのだが……。まぁ、こいつの言いたいことはわかる。あいつの無駄に華やかな容姿と振る舞いは、庶民が想像する貴族そのものだ。
「お話ししていて緊張はしましたけれど、でも不思議と親しみも感じました。あ、失礼でしょうか?」
心配げにフラウリアが見てくる。
「大丈夫だ。あいつも結構、緩い貴族だからな」
貴族らしくはあるが、身分や能力や世間体などをどうこう気にする奴でもない。
だいたいそうでもなければ、無能者の王女と懇意にはしていないだろう。
「それにあいつ女好きだからな」
「おんな、好き」
不思議そうにフラウリアが反復する。
「あぁ、根っからの」
いや、むしろ生まれつきと言ってもいい。
ルドレシア伯爵家は女系で昔からどうもそういうのが出やすい血筋らしいから。
これは貴族の間ではわりと有名な話だと、いつぞやか当の本人が言っていた。そして私は好みではないとも。こちらとしては願ったり叶ったりだ。
「だから基本的に女には相当甘い。だが気をつけろ。あいつが言うことはからかい半分、本気半分だ。迂闊に肯定なんてするな。今日もお前が行くと一言言えば、あいつのことだ。本当に連れて帰ってたぞ」
「連れて帰ってどうするのですか?」
素朴な疑問といった感じでフラウリアが訊いてくる。
「意味わかって赤面してたんじゃないのか」
「え? いえ、あれは、あのようなことをされたのが初めてだったので……」
昼間のことを思い出したのか、フラウリアは恥ずかしげにもじもじしている。
まぁ普通、あんなキザなことされる機会ないよな。
「あ、もしかしてお屋敷で使用人として雇っていただけるとか、そういうのですか?」
「望めばそれもあるかもしれないが、まぁ、普通に考えたら愛人だろ」
「あいじん」フラウリアがゆっくりと言葉をなぞる。
「そう、愛人」
フラウリアは何度か瞬きをしたあと、やっと意味が飲み込めたのか顔を赤くした。
「わ、わかりました。気をつけます」
それから真剣な顔で何度かうなずく。それが少し可笑しくて一人笑う。
「まぁ、女好きを除けば優秀な奴ではある。ユイも認めるぐらいにな。現在の神星魔法学の第一人者と言っても間違いはないだろう。興味があれば今度、色々と話を訊いてみるといい」
「はい」
再度フラウリアはうなずくと、ふと下を見た。そしてはにかみながら手を握ってくる。
機会を探っていたのだろう。それを握り返すと、フラウリアはまた笑って話し出した。
私はその手から流れ込んでくる感情の色を視ながら、昼間のことを思い出す。
――触れるのを許してる時点で、そんなんだと思うわよ。
……そんなことはわかっている。
ついアオユリには否定してしまったが、今さら自分にまでそれを否定するつもりはない。
フラウリアがここに住み始めてからそれはもう、認めている。
こいつが特別だということは。
だが、そう思っていても、いつだって触れるのはフラウリアだ。
全てを打ち明けても、受け入れてくれても、未だに私はこいつに触れることができていない。
こいつから触れてくれるのを待つだけになってしまっている。
ふいにそんな自分が情けなくなって、思わずため息が出た。
「ごめんなさい。お疲れでしたか?」
楽しそうに話をしていたフラウリアが一転、申し訳なさそうに言った。
「あぁ、いや違う。これは――」
私は誤魔化そうかと考えて、思い直した。
先ほどもつかなくていい嘘をついたのだ。もう、嘘はつきたくない。
「その、お前にはいつも、もらってばかりだなと思って」
それでも上手く言語化が出来なくて、曖昧な言いかたになってしまった。
だけどこんな要領の得ない言葉でも、フラウリアは理解してくれる。
「そんなことないです。私はベリト様に沢山のものをいただいています」
「だが私は――」
それを言葉にする代わりに握っている手に力が入る。自ら握ったわけではないその手を。
するとフラウリアはその手を持ち上げて両手で包んだ。
「ベリト様、どうかこれだけは覚えておいて下さい。私が貴女を拒絶することは絶対にありません。これは本心です。おわかりいただけますでしょう?」
「……あぁ」
それが嘘いつわりのないことは、手から伝わる色でわかる。
「それに触れていただきたいときは、私から触れます。そうすればベリト様は必ず返して下さいますから。私はそれだけでも幸せです」
「フラウリア……」
フラウリアは微笑む。
「今日は一緒に寝られるんですよね」
「あぁ」
「嬉しいです。よかったらアオユリ様とベリト様のお話、もっと聞かせてください」
フラウリアがソファから立ち上がる。手は繋がったままだ。
私は微笑むフラウリアを見上げてから、その手を支えに立った。




