大陸暦1975年――05 引きこもりの友人2
イルセルナが少しばかり眠気と戦いながら歩いていると、やがて見慣れた花屋が視界に入ってきた。いつものように手前の道に入る。
その際、花屋の店員に会釈されたのでイルセルナは微笑み返した。
この花屋では以前によく花を買っていた。
最初に買おうと思い立ったのは、ベリトの仕事部屋の殺風景さを見かねた時だった。それはユイも思っていたらしく、それなら花でも買ってみるかという話になったのだ。
そうして花束を贈られた友人の顔を、今でもイルセルナはよく覚えている。
何が目的だ、とでも言わんばかりの当惑を滲ませながら頬を引きつらせたその顔は、今思い出しても笑いが込み上げてくる。
これ私の気持ち、と片目をつぶって渡したのも彼女には効いたのだろう。
それからベリトの元へ行くときは必ず花を買っていった。半分嫌がらせも込めて。
だが今はもうその必要はない。彼女の使用人が買ってくれているからだ。
そしてその使用人にベリトは仕事部屋には飾るなと言いつけてしまった。だから仕事部屋は元の殺風景に戻ってしまっている。
イルセルナは道なりに右へと曲がる。すると普段はこの時間、人がいないこの通りに人の姿があった。
ベリトだった。彼女は自宅の出入口横でタバコを吹かせて腕を組んでいる。
そのいつもより寄せた眉根を見て、思わずイルセルナは笑みを漏らした。
「不機嫌そうね」
そう声を掛けると、ベリトはこちらを見もせず言った。
「誰の所為だ」
それはもちろん私の所為だろう――とイルセルナは内心笑う。
「あら、嫌なら断ればよかったじゃない」
イルセルナはベリトの右隣に立ち、意地悪気に微笑んだ。
「断ったら毎回、修道院まで課題を取りに来るようになるけどいいのか、と言ったのはどこのどいつだ」
そう、先日ユイが相談のように持ち出したのはこのことだった。
ユイは見習いがベリトを怖がっている話をした上で、その担当を希望する見習いがいると言った。
イルセルナは素直に喜んだ。願ってもないことだと。
たとえその見習いの思わくが修道院から外に出ることだとしても、少しでもベリトが人と接する機会が保てるのならそれでもいいと考えた。
けれど続けて不思議にも思った。
何故、ユイは事前にそれを自分に話したのかと。
そもそも見習いに課題を届けさせることを思いついたのはユイであり、それをイルセルナは事後報告で知った。それは相談しなくともイルセルナが了承することぐらい彼女は分かっていたからだ。
今回の事だってそうだ。
ユイは自分がどういう反応をするのか分かっている。
それなのに事前に話したのは、そこに何かしらの問題があるからに他ならない。
希望した見習い側に、もしくはベリト側に。
そしてその見習いの名前を聞いてイルセルナは驚きながらも納得した。
そして迷った。
許可するべきか、せざるべきか、と。
問題はベリト側にあり――見方によればどちらにもあるとも言えるかもしれないが――彼女のことを考えると無論、許可するべきではなかった。
しかし、この機会を無にしてしまうのも惜しい、とイルセルナは思った。
なぜなら他の誰でもない、あの子が、そう言い出したのだから。
そのことに何かしらの意味を感じられずにはいられないし、言葉では説明がつかないような力が働いているようにも思える。
それだけではなく、そこから何かが変わるかもしれないという予感すらしている。
それは要するにただの直感に過ぎないのだが、しかし、自分の直感はわりと当たるほうではある。
なので今回はその直感に従い、許可してみることにした。
これはイルセルナにとっても賭けにも近い選択だった。
しかし許可したとしても、すぐに別の問題が浮上することも分かっていた。
ベリトにこの話をしたら、確実に断ってくることだ。
当然ではある。彼女が今ここにいるのも、似たようなことがあった結果なのだから。
それでもイルセルナはそのことを踏まえた上で、あえて心を鬼にした。
先ほどベリトが口にした文句で少しばかり脅したのもそのためだった。
「引きこもりには効果的でしょう?」
本心を隠すように笑って見せるとベリトは不愉快そうに、ふん、と鼻を鳴らした。そしてタバコを吸ってから顔をそむけて煙を吐く。
それが喫煙しない自分への配慮だということを、イルセルナは知っている。
「でも私、勉強まで教えてあげてって条件はつけてないけれど?」
イルセルナが今日、ユイから聞いた面白い話はこれだった。
面白いとは言っているが、もちろん最初は驚いた。
今まで進んで人と関わろうとしなかったベリトが、自分から人に勉強を教えると言ったのだから。あの子が課題を届けることを嫌そうな顔で渋々と受け入れていたあのベリトが、だ。
そこにいったいどういう心境の変化があったのか、イルセルナは純粋に興味があった。
「課題を作るついでだ」
ベリトは何てことにないようにそう口にした。しかし、風景を見るその目にはわずかに動揺が浮かんでいるのを、長い付き合いのイルセルナは見逃さなかった。
それだけでイルセルナは理解する。
これはベリト本人ですらも分かっていないことを。
勉強を教えると言いだした彼女自身が、戸惑いを感じていることを。
それは良い傾向だとイルセルナは思った。たとえその行動の意味をまだベリトが理解していなくとも、彼女があの子のためにそう言ったのには間違いないのだから。
「へぇそう」
にやにや、と微笑みを浮かべるイルセルナをベリトは睨み返すと、やがて諦めたかのように息を吐いた。
「……いったい何を考えている」
「何って?」
「お前がやることには大抵、裏があるだろ」
「心外だわ。私は純粋に引きこもりの友人を心配しているだけなのに」
「誰が友人だ」
「そうよね。もう貴女とは七年の付き合いだものね。ここまで来ると友人ではなく親友と言ってもいいわよね」
皮肉を笑顔で受け流すイルセルナに、ベリトは大きくため息をついた。
「なあに、そのため息」
「お前の前向きさに心底、呆れているだけだ」
「一緒にいて楽しいでしょう?」
屈託のない笑顔を向けるイルセルナに、ベリトは、ふん、と再度、鼻を鳴らすとタバコを吸った。
「くだらないこと言ってないで、帰ってさっさと寝ろ」
イルセルナは驚いたようにベリトを見る。
「寝てないんだろ」
こちらを見もせず、ベリトはそう言った。
これでも疲れを顔に出していない自信はあるのだが――早朝に出勤してきた部下に来るの早いですねと言わせるぐらいには――どうもユイとベリトには見破られてしまう。しかも全く種類の異なる人間である二人が、こういう時だけ口にする言葉が一緒なのがまた面白い。
そのことをイルセルナは一人、含み笑いしていると、ベリトが呆れたようにため息をついた。
「ったく。何でもかんでも安請け合いしないで、少しは部下に任せることを覚えろ」
「あら、心配してくれてるの?」
ベリトの顔を覗き込むと、彼女は逃げるように顔を逸らした。
「馬鹿を言え。お前が過労でへまでもしたら、私が面倒なだけだ」
素直じゃないんだから――とイルセルナは心の中で優しく呟く。
本当は心配してくれている癖に、と。
ベリトの性格はもう、長い付き合いであるイルセルナには――いや、出会った当初から分かっている。
彼女が不器用で優しい人間だということは。
そう、そんなベリトだからこそ、イルセルナは放っておけないのだ。
「先生にご迷惑をかけないように気をつけます」
イルセルナはおどけるように礼をした。
ベリトはそれを見て何度目かのため息をつくと、タバコを地面に落とした。そして踏みつけて火を消す。
タバコはまだ半分程しか消耗していなかった。だというのに消したのは気配がしたからだ。それにはイルセルナも気づいている。
すぐに、リンリン、と音が聞こえた。仕事部屋の扉の上に付いている鈴の音だ。
「ベリト様。覚え終わりました」
扉から出てきたフラウリアはそう言ったあと、イルセルナを見つけて目を見開いた。
「ルナ様」
「こんにちはフラウリア」
フラウリアははにかむように微笑むと、そそくさイルセルナの前に来て、ぺこり、と頭を下げた。
「こんにちはです」
それは多少の緊張は見られるものの、自然な言動だった。
そんなフラウリアにイルセルナは感心と、少しばかりの驚きを感じた。
イルセルナは一応、この国の王族だ。
生まれ持った体質から星王家の恥さらしや、星王家に相応しくないなど、好き放題に陰口を叩かれていたりもするが、それでも王族ということには違いない。
だから正体を明かせば、自然と相手は身構えてしまう。
それでも話をすれば誰とでも――自分を好ましく思っていない人間以外は――打ち解けられる自信がイルセルナにはあるが、そうなるには流石に少しばかりの時間を要する。修道院の大抵の見習いもそうだった。
だが、フラウリアは会って二度目でほぼ自然体でいる。
そのことに適応力が高いなと、イルセルナは感心したのだった。
いや、適応力というよりは意外と度胸があるのかもしれない。
ベリトに物怖じせずに関われるのだから。
「この無愛想に虐められてはいないかしら?」
イルセルナが訊くと、フラウリアは、ぶんぶん、と一生懸命に首を振った。
「そんなこと。ベリト様はとてもお優しいです」
彼女はそう言ってから、笑顔を浮かべた。
それは見ているこちらが心洗われるような純真無垢でいて、そして陽だまりに咲く花のような笑顔だった。
そのことにイルセルナは驚きを感じながらも、意地悪な笑みを浮かべてベリトを見る。
「へーそうなの? ベリトさま?」
ベリトは射殺すような勢いで睨んでくると、手で追い払うような仕草をした。
「セルナ、さっさと帰れ」
「はーい」
普段ならそう言われても聞き流してしまうイルセルナだが、今日は素直に聞き入れることにした。
フラウリアの勉強の邪魔をしたくはないし、それに何よりそろそろ自分の限界が近い。
「またねフラウリア」
「はい。お気を付けて」
イルセルナは手をひらひらと振りながら背を向けて歩き出す。
しかし、ほどなくして足を止めると、振り返った。
視界には、背を向けて歩いているフラウリアとベリトの姿が映る。
フラウリアが嬉しそうに何かを話しているのを、ベリトはいつもの仏頂面で聞いている。
そうして部屋の中に戻って行った二人を見届けてから、イルセルナは再び歩き出した。
そして思う。今日は良い気分だから花でも買って帰ろうと。
そうすれば彼女も機嫌を直してくれるかもしれない、と。




