大陸暦1977年――11 一人の朝
目が覚めて上体を起こした。
魔灯を点けて体をほぐし、時計を見れば時刻は朝の四時。
昨日は深夜一時過ぎにベッドに入ったので、睡眠時間はだいたい三時間といったところか。今日は午後の仮眠が取れないことも考慮して早めに就寝したというのに、その効果はなかったようだ。最近は長く寝られるようになっていたので大丈夫かと思ったのだが……もうここまでくれば確信せざる得ない。眠れていたのはフラウリアがいるからだと。
私は横を見る。当然だがそこにあいつはいない。
そのことに昨夜も違和感を覚えた。
いつも朝方ベッドに入るときに必ず見る、呑気な寝顔がないことに。
その緩い気配が、そばにないことに。
何年も一緒に寝ているわけでもないのに、もうあいつがいることが当り前になっている。
あいつがいないことが、当り前ではなくなっている。
……不思議なものだ。死ぬまで一人だと思っていた私が、一人でいることに違和感を覚えるなんて。
そう一人、苦笑して、ベッドから下りた。洗面所はと、部屋を見る。
星竜教会内に用意された部屋は、大層なものだった。
家の自室と居間を一緒にしたような広さで、内装や家具もなかなかに凝っている。おそらく普段は教会のお偉いさんや、王侯貴族用の客間として使われているのではないだろうか。まだ聖女であるユイはともかく、関係者だか部外者だかよくわからない立場の私には明らかに不相応な部屋だ。想像するに、あのお嬢さんが立場を利用して用意させたのだろう。
それは部屋だけではない。昨夜の晩餐もそうだ。
教会の食事だからさぞかし健康志向なのだろうと思っていたら、これまたなかなかに立派な料理が食卓に並んでいて少し驚いた。立派といっても貴族の晩餐会みたいな、食べきれない量の料理を並べて、馬鹿みたいに食卓を飾り立てていたわけではない。そこは普段、慎ましい生活を説く星教だ。適度な量の料理が出されていたのだが、その一つ一つの質が高く、味もよかったりと、非常に満足のいくものだった。
そう、よかった。料理は。
問題はあのお嬢さん、イルケルスだ。
私は洗面所に行き、鏡を見た。顔にどことなく疲労が滲み出ている気がする。
晩餐は私とユイとイルケルスの三人のみだった。ほかにお偉いさんでもいるのではないかと思っていた私は、そうでないことに安堵した。
しかしそれはつかの間のことだった。
回りの目がないのをいいことに、イルケルスはよく喋った。
解剖学への情熱を熱く語り、それに関しての質問をあれこれしてきた。
普段の私ならお嬢さんと上品な世間話をするぐらいなら、解剖について訊かれたほうが百倍マシだと思うのだが、それは普通の状況でのことだ。人生の三分の二ほど育ちがよくない私も、流石に食事中に解剖の話をするのはどうかと思う。
だがイルケルスはそんなことお構いなしに、好奇心旺盛な子供のように話をせがんだ。
普通のお嬢さんなら口にするのを躊躇しそうなことも、あいつは目を輝かせながら平然と口にした。
それは晩餐だけに留まらなかった。食後の茶の場でも続いた。
それに辟易し、疲れ果ててしまった私は、イルケルスをユイに押しつけて先に部屋に戻った。そして再確認した。本当にセルナが気に入る人間にはろくな奴がいないと。
洗面所で身支度をする。昨日ここに着いたとき、イルケルスが解剖学に興味がある人間がいると言っていたが、晩餐のときに聞いた話によれば数人というわけではないらしい。下手したら二十人ぐらいがいるかもしれない。人数がはっきりしないのは治療士など、そのときの患者の状況によっては来られない奴がいるからだ。
セルナがなにも言わなかったとはいえ、流石に教会長が一人でということはないと思ってはいたが、予想以上に観客がいるようで憂鬱になる。
洗面所を出て何度かため息が出ながら着替え終わると、ソファに座った。
目の前の机の上には新聞が置かれている。流石に今日のではない。昨日の新聞だ。
一面の端には竜都新聞と書かれている。その名の通り、竜王国で発行されている新聞だ。この新聞は何年か前、暇つぶしに取り寄せて読んでいたことがあるので、見るのは初めてではない。
私は新聞を手に取り、開く。記事の構成は星都新聞と変わりないが一つだけ、違うところもある。
星教に関する専用の頁がないことだ。星教関連の記事は、ほかのものと混ざって記載されている。そこは星教が国教の星王国とは扱いの差がある。
事件が多いのはどこも同じだな――そんなことを思いながら読み進めていると、扉が叩かれた。この気配はユイだ。
新聞を置いて扉に向かい、そして鍵を外して扉を開ける。
「おはようございます」
「あぁ、早いな」中に招き入れる。
「礼拝に参加させていただくので」
「今日は別に仕事で来ているわけじゃないんだろ」
星教の教義では、毎日の朝夜と食前の祈りの大事さを説いているが、それも絶対というわけではない。祈る余裕がなかったり、日々の食事に困る奴への配慮なのか、毎日が難しい場合は可能な限り祈りなさいとも説いている。そして己の休息日には、神への祈りも休んでいいとも。
教義にはそれを絶対とする内容も多くあるが、そうやって縛りつけるだけでなく緩いところもあるのが長年、信仰されてきた理由の一つでもあるのかもしれない。
そういうわけでフラウリアも休日のときは朝夕の祈りはしていないし、ユイもそうだとなにかの話の流れで聞いたことがある。今日は私の付き添いのためだけに来たとはいえ、完全に休日というわけではないのだろうが。
「とはいえ、立場がありますから」
まぁ、色付きが来ているのに顔を出さないわけにもいかないのか。
「何時からだ」
「五時です」ユイがソファに座ったので、私も向かいに座る。「先ほど飲み物をお願いしました。珈琲でよろしかったですよね?」
「あぁ。……寝起きに珈琲と話したことあったか?」
「ルナが言っていました」
「お前には本当、口が軽いな」
「それには同意します」
「お前もあいつには軽いがな」
「それも自覚はあります」
あるのか。それは初耳だ。
苦笑しかけて、ふいに小さく欠伸が出た。
「あまり寝られなかったのですか?」
「いや、いつも通りには寝てる」
私が昔から短時間睡眠で眠りが浅いことはユイも知っている。
「それでもなんというか、寝た気がしないというか」
その原因がフラウリアだとは流石に言わない。言えない。
「わかります。寝床が変わると休まりませんよね。私も今日は早めに目が覚めてしまいました」
「お前はそれなりに仕事で外にも泊まるだろ」
「それでもやはり、慣れた自宅が一番ですよ」
まぁ、そうだよな。どこでも寝られるのはセルナみたいに繊細ではない奴だけだ。
そこで扉が叩かれた。ユイが「どうぞ」と答えると、修道士が中に入ってくる。
「失礼致します。お飲み物をお持ちしました」
「ありがとうございます。朝のお忙しい中、すみません」
「い、いえ」
ユイに微笑みかけられて、まだ若い修道士が気恥ずかしそうにしながら机に飲み物を置いていく。こいつが年齢問わずモテることはセルナに聞かされて知っているが……なるほどなと思う。
「ほかになにかございましたら、お呼びください」
修道士はぎこちない礼をして部屋を出て行った。
私はカップを持ち、一口飲む。家のとはまた違った味わいで、まあまあ美味い。
「お前もセルナとは違った意味でたらしだな」
そう言うと、ユイが不思議そうに小首を傾げた。そこは自覚ないらしい。
話を広げるつもりはないので、話題を変える。
「朝食は礼拝のあとか?」
「はい」ユイが紅茶を飲む。色味と漂う香りからしてダージリンだろう。
「まさかここの奴らと一緒に食べるんじゃないだろうな」
「ご心配なく。お部屋に運んでくださるそうです。できればご一緒したいのですが」
「お前はいいけど、あいつも来たりしないだろうな」
私の言い様にユイが苦笑する。
「イルケルス教会長はご用事で、こちらには実演前に来られると仰っていました」
それを聞いて安堵する。朝からまたあの調子だと、実演前に気力を使い果たしてしまう。
「昨夜、貴女がお部屋に戻られたあと、貴女のことを大絶賛されていましたよ。貴女の知識は凄いと。自由がきく身ならば弟子入りをしたいぐらいだと」
「勘弁してくれ」
いくら熱心だとはいえ、あんなのに毎日つきまとわれては心が休まるときがない。そう考えると、あいつが自由のきかない身に生まれたことに、神に感謝したい気持ちになった。
「私も久しぶりに拝見するので、楽しみです」
「解剖が楽しみだなんて全く、星教にはまともな修道女がいないな」
私の皮肉にユイは笑うと。
「そろそろ行きます」
カップを置いて立ち上がった。
「まだ早くないか」
「礼拝の前に挨拶もしたいので」
「あぁ。立場があるってのは面倒だな」
それにユイは苦笑して、扉に向かう。
「そうそう」扉を前にしてユイがこちらを見た。「お土産どうされます?」
「あぁ……まぁ、別にやることないし、行く」
「わかりました」
ユイが出て行き、ソファの背もたれに体を埋める。
朝食のあと街に繰り出して土産を買って、そして昼前から実演か。
実演が昼を跨いだのは時間の都合だ。
今日はイルケルスの要望で、全身隅々を解剖しながら解説しなければならない。
死検士の助手を付けてくれるそうだが、要点のみに絞ったいつもの解剖よりは確実に手間と時間がかかる。
……長い一日になりそうだ。
そう思い一人、大きくため息をついた。




