大陸暦1975年――05 引きこもりの友人1
修道院をあとにしたイルセルナはふと立ち止まって空を仰いだ。
今日の天気は快晴。雲一つない清々しい夏期の青空が目前に広がっている。
外に出たときにこうして空を見上げるのは、イルセルナの習慣のようなものだった。
それが習慣づいたのは最近のようで、もう随分と昔のことになる。
それまでイルセルナはあえて空を見上げることはなかったし、興味も無かった。
いや、興味はあったのかもしれない。そこに感情は持っていたから。
自分の気持ちとは裏腹に澄んで晴れ渡る空に対して、苛立ちを覚えていたから。
それは空だけの話ではなかった。
昔の自分は何に対しても苛立ちを感じていた。
何も生まず何も残せない自分の特異な体質も、自分を特異なものとして見る人達も、そしてそれを受容している世界も全て。
それは反抗期な子供による八つ当たりのようなものだった。
今ではあの頃の自分が心身共に本当に子供だったと分かるし、当時を思い返しただけでも慚愧に堪えない気持ちになる。
それでも当時の自分には、そう思うよりほかなかった。
内から湧いて出てくる感情を、行き場のない憤りを、何かの所為にするぐらいしか術を知らなかった。
そんな自分を変えたのは一人の少女だった。
空が好きだったその少女は、青空の下でイルセルナに言った。
貴女はこの空のような人だ――と。
その一言が、いや、彼女との出会いそのものがイルセルナを変えた。
己の体質を受け入れ、全てを受け入れ、自分が出来ることを成そうと行動するようになった。
その最たるものがイルセルナ率いる、星都の治安維持を目的とした特別捜査部隊、通称〈碧梟の眼〉である。
星都の治安維持には通常、城下守備隊が担っている。
だが、城下守備隊は万年人手不足であり、更には年々増加の一途を辿る軽犯罪の対応にも追われ、その中で起こる凶悪事件に対処しきれなくなっていた。
碧梟の眼はそういう凶悪事件への対処や、対犯罪組織を目的としてイルセルナが立ち上げた部隊だ。
そして立ち上げから十年、ありがたいことに部隊は軌道に乗っている。
だがそのことにより近年は守備隊と同じ問題を、碧梟の眼も抱えることになった。
イルセルナは空を見ながら目を細めた。
昼に近づいた日差しが、容赦なく目の奥を締め付けてくる。
――徹夜明けには効くわね。
そう、イルセルナは今日、徹夜明けだった。
碧梟の眼は任務の危険性から、選りすぐりの人材のみで構成されている。
しかしそんな人材がそう簡単にいるわけもなく、そのことから碧梟の眼も守備隊と同じく人手不足に悩まされていた。
それでもと最近は近衛隊や騎士団から適材と思われる若者を引き抜いて育成も始めているが、そういう者達は総じて実戦経験が浅く、任務で負傷することも多い。
イルセルナが徹夜明けになったのは、負傷した部下の代わりを買って出て深夜の巡回をし、そのあとに自分の机仕事を片付けていたからだった。
そして折角こんな時間だしと修道院に顔を出したら、半眼のユイに睨まれて『さっさと帰って寝てください』と、話もそこそこに追い出されてしまったのがまさに今だ。
寝ずに働いていたことをユイは怒っていた。もちろんそれは自分を心配してくれてのことなのだが、何が理由にせよ怒らせたことには違いない。
こういうときは大人しく彼女の言うことに従うのが賢い選択だ。それはこれまでの経験上、理解している。しかし今日はユイに面白い話を聞いてしまったこともあり、少しだけ寄り道をすることにした。
止めていた足の歩みを再開し、商店街へと続く通りを進む。
今向かってるのは友人、ベリトの家だ。
イルセルナは常日頃からこの辺りに寄った際には、なるべくベリトの元へと顔を出すようにしている。
それは友人に会うためでもあり、彼女を心配してのことでもある。
イルセルナの友人ベリトは俗に言う、人嫌いの引きこもりだった。
実際はそれでまとめられるほど単純な話ではないのだが、世間から見ればそうだろう。
ベリトは必要に迫られなければまず外には出ないし、人とも仕事がなければ会おうともしない。ましてや自分から誰かに関わるなんてのはもってのほかだ。
少しでも放っておけば、いとも簡単に孤独を受け入れてしまうのがベリトという人間だった。
それが本当に彼女の望んでいることならまだいい。
一人で生きること自体は別段、悪いことのようにイルセルナは思わない。
だが、ベリトの場合は最初から望んでそうなったのではない。
そうならざる得なかったのだ。
その理由を知っているイルセルナとしては、友人がそのようになってしまうのを見過ごすことはできない。しかし、だからといって明確に解決法を示せるわけでもない。それはベリト自身の問題であり、自分の体質と同じく、いや、それ以上に難しい問題だということは理解しているから。
だからせめてもとイルセルナはできるだけ、ベリトの元へと顔を出すようにしている。
彼女を長く一人にしないように――孤独に慣れさせないように、と。
修道院の仕事を振ったのもその一環だ。
ユイが見習いに課題を届けさせていたのも、他のお使いと同様に閉鎖的な修道院で過ごす見習いに少しでも外の空気を吸わせる目的に加えて、ベリトに人と接する機会を作ろうと考えてくれてのことだった。
「それなのに、もう」
イルセルナは独りごちる。
どうやらベリトは見習いの子を怖がらせてしまったらしい。
だが、それも言われてみれば当然だった。
ベリトの態度は友人の目から見ても、お世辞にも友好的とは言えない。
不機嫌そうに眉をつり上げている人間に、ぶっきらぼうで冷たい物言いをされては、たとえ好奇心旺盛の年頃である少女達でも流石に怖じ気付いてしまうだろう。
そのことにイルセルナとユイは思い至らなかった。
それは別にベリトの態度に慣れていたからではない。
よりにもよって二人とも、そういうことを気にしない質だったのだ。
だからユイも見習いがベリトを恐れていると聞いた時は一瞬、理解ができなかったと言っていた。いったいベリトのどこが怖いのだろうと、彼女は本気で思ったらしい。
だけど話を聞いているうちにそのことに思い至り、その可能性に微塵も気づけなかったことを反省していた。真面目な彼女らしい。
それを先日、修道院に顔を出した際にユイに聞いたイルセルナは、これでまたベリトが人と関わる機会が減ってしまうな、と残念に思った。
ユイは日頃から、自主的にベリトのことをよく気にかけてくれている。
仕事の話をするにしても外に出たがらないベリトの気持ちを汲んで彼女の元へと出向いてくれているし、忙しい身なのに些細な用事でもなるべく顔を出すようにしてくれている。
だけどユイがベリトと見習い、どちらを優先するかとしたら、もちろんそれは見習いだろう。
それは見習いの生活と安全を預かる修道院長としては当然の選択であるし、彼女はそれを抜きにしても見習い全員を大切に思っている。その見習いが怖がってるのだから、ユイはもうベリトの元へは行かせない。彼女は嫌がっている人間に無理強いをさせたりはしないから。
そのことはイルセルナも理解している。
だから残念ではあるが仕方がない。
今後もベリトが態度を改めない限りは、現状が変わることはないだろう。
だけど、それでも、と思う。
どこかにベリトを怖がらずに接してくれる人間は、自分の代わりになるような人間はいないだろうかと。
イルセルナがそう思うのは何も、ベリトの元を離れたいわけではない。
生きている限りはベリトを見棄てたりはしないし、友であり続ける。
だが、自分はマドリックだ。
マドリックは体内に粒子がない影響で魔法が使えないだけではなく、体内の粒子に働きかける治療魔法も効かない。
そのことから怪我を魔法で治すことができないし、普通の人間が助かるような怪我でも死に至る可能性が十分にある。
つまりは普通の人間よりも、死が身近なのだ。
そのことに加え、犯罪者を相手にするイルセルナの仕事は危険が伴うものだ。
未熟だったころはよく怪我を負っていたし、死にかけたこともある。
今は腕が上がったお陰か滅多に怪我は負わなくなったが、だからといって今後もいつ何時、何があるかは分からない。
その可能性をイルセルナは常に頭の隅に置いている。
死を忌むべきものではなく、何れは訪れるものとして受け止めている。
だからこそ思うのだ。
ベリトに自分以外の友人ができないものかと。
そして欲を言えば彼女の心を開き、側にいてくれる人間はいないものかと――。
そんなことを考えていたイルセルナに、ユイが相談のように話を持ち出したのはまさにその時だった。




